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2009年10月19日

諸葛亮の人を見る目1

諸葛亮(ショカツリョウ)は三国志と三国志演義(こちらが日本でいう一般的な三国志で、史実三国志をモデルにした小説)ではかなりイメージの違う人です。

演義における諸葛亮は次々と奇策を用いて連戦連勝する最強軍師ですが、実際の彼はあまり奇策を用いず、慎重な用兵をする人だったようです。
また、軍事よりも外交、内政に辣腕をふるった名宰相ですね。
(もちろん、この男が現れなければ三国鼎立は無かった訳ですしすごい人物ですよ。)

そんな彼の人を見る目について私は常々疑問に思っていました。

それは何と言っても馬謖(バショク)の起用と姜維(キョウイ)の起用なんですが・・・。

まずは馬謖。

諸葛亮の一番弟子で「泣いて馬謖を斬る」という言葉の語源になった事件を起こした人です。

劉備(リュウビ)の創った蜀政権(ショクセイケン)において、劉備挙兵時代からの人々、徐州(ジョシュウ)で配下になった人々、荊州(ケイシュウ)で配下になった人々、益州(エキシュウ)で配下になった人々と、多くの派閥があった中で、馬謖は諸葛亮と同じ荊州派閥の人物です。
(古来中国の人は同郷の人とのつながりが深いです。)

並はずれた才能の持ち主で、軍略を論じることを好み、諸葛亮から高い評価を得た人物ですが、主君の劉備は「馬謖は口先だけの男だから、重要な任務につけてはいけない。」と諸葛亮に忠告してます。

そんな彼が光る進言をしたのが、諸葛亮の南征(ベトナムの辺りまで攻め込み、この地域を支配下に治めた戦)において「城を攻めるは下策、心を攻めるを上策」と言い、諸葛亮を喜ばせ、あれほど劉備に言われているにも関わらず諸葛亮は馬謖をますますかわいがるようになります。

そんな彼の没落は228年第一次北伐(劉備の遺言に従い、魏国に対して侵攻した戦)において戦略上の要所、街亭(ガイテイ)の守備を諸葛亮から命じられる所から始まります。

本来ならば趙雲(チョウウン)、魏延(ギエン)といった百錬練磨の将が受け持つべき重要なポストに馬謖を大抜擢した裏側には愛弟子に箔をつけてやりたいという親心と、益州派閥に押されぎみの荊州派閥を何とか盛り返したいという思いがあったものと思われます。

また、経験の浅い馬謖に対し、副将に戦場経験豊か(な方)な王平(オウヘイ)をつけることにより、その経験を補うというお膳立てぶり。

そんな馬謖は諸葛亮が街道を押さえるように指示したにも関わらず、これに背き山頂に陣を敷いてしまう。

副将の王平はこれを諌めたが馬謖は聞き入れませんでした。

理由は兵法によると山上から攻め下る軍は力を発揮する為、山上に陣取るべし。という所。

しかしながら相手は百戦錬磨の張コウ(単漢字にはありますが表記されません)。

水路を断たれ山頂に布陣した蜀軍は惨敗する結果となります。

馬謖の才能を惜しみ、多くの人が引きとめたにも関わらず諸葛亮は馬謖を軍令違反により処罰します。
(これが、泣いて馬謖を斬るという故事ですね。)

馬謖の山上の布陣というのは兵法からは正しいのですが、水源の確保という書物の中では理解し得ない部分に負けた訳です。
(要は兵法オタクというだけの人物でした。)

これを見ると諸葛亮の人を見る目に疑問を持たざるを得ません。

長くなりましたので、続きは明日にします。


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posted by たか at 17:06| Comment(0) | 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月16日

ちょっと異常な儒教風景

儒教という宗教について、現状、どういう考え方になっているのかはわかりません。
(正直、私は無神教者の為、宗教に殉じる気持ちはわかりません。)

儒教に関しては古い時代(三国志以前)の考え方しか知りませんが、ちょっと怖いと思っている所があります。
(もちろん現在も儒教の信者は多くいますし、宗教の自由なので別に何とも思いませんが・・・。)

儒教は親に孝、君に忠、礼儀を重んじ、徳を大事にするという考え方自体、正しいと思っています。

しかしながら、過剰に反応してしまう例がまれにあります。

まず、私が歴史で読んだ儒教は見た目を気にします。

例えば、親が死んだ場合に盛大な葬式をして家が傾いた人が、素晴らしい孝行息子と言われます。

また、その後は足掛け3年(実質2年と1カ月)喪に服します。
それはそれでいいのですが、最高の喪というのは足掛け3年間、粗衣粗食で過ごし、生きてるのが不思議なくらいやつれる事が美徳とされています。

う〜ん。自然にそうなるのであれば確かに孝行息子ですが、どうもマニュアル的にこうしなければいけないからやっているような・・・。
私はこんなに親孝行で儒教に忠実なのですよってアピールのような気がします。

果たして、亡くなった親が子供が生きているのが不思議なくらいやつれる(しかも建前の為に)事を望んでいるのだろうか・・・。

疑問に思います。

また、私が疑問に思う三国志に出てくる儒教精神の逸話を一つ挙げさせて頂きます。

主人公は夏候令女(カコウレイジョ)。

この人は、まず曹爽(ソウソウ)のいとこ、曹文淑(ソウブンシュク)に嫁ぎ、この夫を早くに亡くします。
もちろん子供もいません。

実家に戻った彼女は再婚させられると思い、髪の毛をばっさりと短く斬ります。
(死んだ夫に対して操を立て、節義を守るという美徳がほしかったのです。というか本当にそう考えてたみたいです。)

案の定、実家は再婚を勧めるのですが、即座に彼女は自分の耳をそぎ落とし、前夫のいとこ、曹爽の元に身を寄せます。
死んだ夫に操を立て、節義を守る為に、耳をそぎ落とした訳ですよね。
(そうすることによって再婚を阻止しようとした。)

曹爽とその一族が誅殺された際に、彼女の叔父さんが上書して曹氏と縁を切り、彼女を引き取ります。

この叔父さんは彼女が若いのに操を通すのを憐れむのと、曹氏に生き残った人がいないので(曹氏を再興させようとしてたのですね。縁を切ったのに・・・。)なんとか彼女の意志をかえて再婚させようと人を送ってそれとなく進めたらしい。
(耳をそぎ落とした女の人を再婚させようというのだからこの人もちょっとずれてる。もしくは耳をそぎ落としてもかなりのベッピンだったのでしょうか・・・?)

彼女も「私もそう思ってますよ。」って言ったので家族の者がほっとし、警戒を解いた隙を突いて、彼女は自分の寝室に入り刀で自分の鼻を落とし!!横になり布団をかぶったそうです。
(想像したくない・・・。)

いくら呼んでも返事が無いので訝った母が布団をめくると鼻のない娘がいて血の海だったという・・・。
(かなりびっくりしたでしょうね。)

家族のみんなはそんな彼女を見て悼み悲しんで泣いたそうです。

ある人が彼女に「何でそんなつらいことをするのですか?あなたの夫の家は皆殺しにされたのに誰に対して節義を貫いているのですか?」と聞いたところ彼女は「聞き及びますには、仁者は盛衰いかんで節義を改めず、義人は存亡いかんで心を変えぬとか。前に曹氏が盛んだった時でさえ節義を貫こうと思っていました。まして衰亡してしまった今日、どうして節義を捨てるに忍びましょうか。禽獣同然の行いは致しません。」といったとの事。

まあ、そんな彼女の話を聞いて、心を動かした司馬懿は養子に曹氏の後を継がせる事を許して、彼女の名前は世に鳴り響いたらしい。

この夏候令女の事を坂口和澄氏は著書「逸話で綴る三国志」の中で紹介され、「令女の言い分はもっともだし、天晴れといえば天晴れだが、礼教(人間を縛る儒教の掟)がしがらみになって建前でしか物を考えられない姿に憐れみを感じる。」と評されています。

全く同感です。

彼女が大事にしたのは節義ではなく節義を守っているという自分なのでは・・・?

失礼ながら、そう思えてなりません。




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ラベル:三国志
posted by たか at 19:06| Comment(0) | 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月15日

加藤清正は毒殺?

加藤清正は豊臣恩顧の大名。
賤ヶ岳七本槍の一人。
但し、七本槍の活躍は実は戦が決してから秀吉が自分の子飼いの武将に箔をつける為に突撃を命じ、その戦果を過大宣伝をしたもので、清正本人は後に七本槍の話をされる事を嫌ったとの事。

築城の名人にして、知勇兼備の猛将と言われています。
(熊本城は今なお名城として伝えられています。)

そんな彼は数々の逸話を持っていますが、そのあたりはいつか加藤清正をブログにて書くつもりですので、そちらで詳細を述べます。

関ヶ原の折は東軍につき奮戦。その後も名古屋城の普請などをこなし、家康に対して従順な姿勢を貫きます。

城普請の際は親友の福島正則が「家康の子供の城普請まで手伝わないといけないのか」と愚痴をこぼした際は「嫌なら領国に帰って戦準備をしろ」といったらしい。

しかしながら、豊臣家への忠誠は終生貫いた人物でもあります。

例えば、年始の挨拶等、徳川家康の元へ訪れる際に他の大名は家康に気を遣い直接挨拶に行くのですが、清正だけは一旦大阪城により、秀頼にご機嫌伺いをしてから家康の元へ行ったそうです。

また、1611年に二条城で家康と秀頼の会見が実現しますが、これに骨を折ったのも清正。

秀頼が家康に暗殺されることを恐れて会見をさせないようにしようとする淀の方に自分が同席することを話し、もし怪しげな行いがあった場合は家康と刺し違える覚悟を述べ、納得させたとの事。

結局、家康と秀頼の対面は秀頼に加藤清正、浅野幸長が従者として従う事により実現しました。

清正はその後、熊本に帰る船の中で病を発し、領国に帰ってから死去したらしい。
家康、秀頼の会見から3ヶ月後となります。
一応、死因は花柳病とされていますが、死体は真っ黒になっていたそうです。
(ちなみに、清正の死から2年後に浅野幸長も同じ病で死にます)

胡散臭いですよね。

私が家康ならば清正は邪魔です。

また、家康が知っていたかはわかりませんが、熊本城には本丸の最深部に「昭君之間」という部屋があり、鴬張りの廊下や外へと通じる隠し通路があったらしく、この部屋は豊臣家に何かがあった際に秀頼を匿う為の部屋を作っていたとの事です。
もちろんこの部屋は誰も使う事が無かったらしい。

それだけの豊臣家へ対する忠誠心を見せつけられて、しかもそれが知勇兼備の猛将となれば、家康の心中は穏やかではないですよね。

私ならば殺します。

私の読んだ本の中では、池波正太郎氏の「真田太平記」に清正の死が書かれていますが、その中では清正のお気に入りの料理人が実は忍者で、清正の食べる料理に毒をもった形で書かれています。

まあ、これが本当かどうかはさておき、やっぱり清正は毒殺されたのでは・・・。


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posted by たか at 16:13| Comment(2) | 戦国時代(日本) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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