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2009年10月14日

荀ケは自殺?

私が三国志の中で一番優れた軍師を選ぶとすれば、一番は荀ケ(ジュンイク字は文若ブンジャク)を選びます。

若い頃から「王佐の才」と評価され、曹操に仕えた頃は曹操から「我が子房」と評価された人物。
(子房とは漢王朝を起こした劉邦を支えた張良 チョウリョウ の事で「帷幄の中で謀をめぐらし、千里の外に勝利を決する」といわれた名軍師)

彼はあまり曹操の戦には従軍せずに常に本拠を守っていた人物で、戦場にてリアルタイムに軍勢を配置、指揮する戦術型の軍師ではなく、外交で自勢力を有利に持っていったり、人材推挙により体制を固めるいわば戦略型軍師。

私もかなり好きな人物です。

帝を迎え、奉戴することにより他の群雄から一歩抜きんでる事を進言したのも彼。

「駆虎呑狼の計」、「二虎共食の計」など、帝の勅と外交を駆使した戦略は絶品!!。
(後世の創作かも知れませんが・・・。)

彼の死は212年に訪れます。

孫権征伐軍に従軍し、その途中寿春にて病を発し死去。享年50歳。

一般的には曹操の魏公就任に反対(理由は王族しかなれない公の位に就くということはその後に王朝を簒奪する可能性があり、漢王朝の滅亡につながる為)し、病を発した際の贈り物として曹操から空の器を贈られ、それを見た荀ケは「お前は用無し」という曹操からのメッセージと解釈して服毒自殺を図った事になっています。

しかしながら、私にはこの死因が納得できません。

荀ケといえば曹操旗揚げ当初からつき従った名参謀な訳で、漢王朝の衰退や戦乱を終わらせる為に天下の統一が必要な事は身にしみてわかっていたはず。
(だからこそ曹操を支えたのでは・・・。)

そんな彼が曹操の魏公就任に反対するのはおかしいと思うのですが・・・。

恐らく、荀ケを服毒自殺させたかった人々の創作では?と思っています。

荀ケといえば当時の清流派と呼ばれた知識人達の代表格。
そんな彼が宦官(帝の大奥を取り仕切る男性機能を失った人々。しばしば姦計を用いて自分達の利益を図った。)の孫である曹操に誠心誠意仕えるはずがないとう考え方からおこった事では?と思ってます。

曹操はご存じの通り三国志(演義)では悪玉として扱われます。

しかしながら、実際の曹操という人物はとんでもないスケールを持った人物で、彼の残した功績はかなりのものがあります。
(詳細はいつかこのブログで曹操について書きたいと思います。)

理想よりも現実を求める人物で、そういう人は結果を求めます。
目的を達成するためにはどんな手でも使うという人物の為、知識人階層に多い儒者の方々からすれば認めることができなかったのでしょう。
(儒者は理想を求める傾向が強い)

また、荀ケが漢の尚書令という役職に就いていた(もちろん曹操の推挙)事も漢王朝の忠臣にしたかった一因でしょうね。

多くの方々が曹操と荀ケの対立、死因につてい書かれておられますが、殆どは一般的な服毒自殺説です。

その中で、ちょっと変わった例を何点か記載します。

蒼天航路
荀ケが魏公就任についてはこれだけの偉業を成し遂げた曹操が王朝簒奪の汚名を着てはいけないという理由から反発。
死因は器を曹操から贈られるがその中に丸めた白紙が入っている。
その意味をいろいろと考えるが悪い事しか浮かばず、多くの薬を飲み死に至る。
(死後、白紙の意味を理解してすっきりと旅立ちます。)

北方三国志(著者 北方謙三氏)
魏公就任の対立については一般的。
荀ケが病を発した事を聞き、暗殺を恐れた曹操が荀ケの屋敷に警備兵を置き、その警備兵が自分を暗殺に来たと誤解して自殺。
(確かそうだったと思います・・・。)

荀ケ(著者 風野真知雄氏)
曹操は魏公就任についてためらっており、むしろ荀ケが進めている。
(漢王朝はすでに衰退しているので人民の幸せの為、新たな王朝が必要)
病を発してしまうが、曹操はそんな荀ケに器を贈る。
その中には蝗の佃煮が入っていて、荀ケに対する「がんばれ」というメッセージなのですが、それを理解しながら荀ケは空の器を贈られ、服毒自殺という噂を流して死にます。
そうする事により曹操に魏公就任を迫ったという説。

秘本三国志(著者 陳瞬臣氏)
荀ケは病を発し、長くないことを悟ると今後の国の行く末を案じ、曹操の不満分子を粛清する事を考えます。
魏公就任の話が持ち上がり、それに真っ向から反対する事により曹操を快く思わない(が、曹操の配下でいる)人々が荀ケに接触してくる。
その人々のリストを作成し、曹操に渡して死ぬという説。

私としては秘本三国志の不満分子のリストを作るための対立し、彼はそうすることによって自分のいなくなった曹操帝国を守ろうとしたというのが一番すっきりするのでは?と思います。

諸葛亮が死んだ時「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と言われたような鮮やかな策略に彩られていますが、荀ケの死も、策略に彩られていてもいいのではないでしょうか?

私のこよなく愛する荀ケはこうであってほしい。


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posted by たか at 18:47| Comment(0) | 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月13日

孝明天皇は暗殺?

ペリーの黒船が来航し、攘夷、開国、尊王、佐幕等の思想が複雑にからみ明治維新の魁〜沸騰期の天皇が孝明天皇です。

外国人嫌いで有名だが、幕府とは折り合いが良く、特に松平容保は「もののふと こころあわせていわおをも つらぬきてまし よよのおもいて」(だったと思います)という和歌を頂くなど、たいそうな新任を得ていた。

しかしながら慶応2年(1866年)12月25日崩御。享年36歳。
死因は天然痘とされる。

ざっと話すと上記の通りです。

孝明天皇在位中は佐幕派が力を持ち、孝明天皇崩御後は倒幕派が力を持つ事になり、以前から岩倉具視による暗殺説が噂されています。

崩御に至るまでの経緯
 12月11日 風邪気味にも関わらず宮中の神事に参加
 12月12日 発熱(医師二人体制で治療)
 12月14日 病状変わらず(医師三人体制で治療)
 12月15日 病状かわらず(医師四人態勢で治療)
 12月16日 痘瘡感染の疑い
 12月17日 痘瘡に感染したと発表(医師15人態勢で治療)
 12月25日 痰がひどく治療のかいなく亥の刻(午後11時)過ぎ崩御
      中山忠能の日記によると「御九穴より御脱血」との事

以上、崩御の経緯についてはWikipediaを参考にさせていただきました。
(こちらには毒殺説、毒殺否定説が掲載されてますので、興味のある方はご覧ください。)

私の考えからすると、やはり岩倉具視はクロです。
彼が暗殺したのでしょう。

暗殺否定説には岩倉具視は孝明天皇崩御当時倒幕思想では無かったという事がありますが、その時点で倒幕か佐幕かはあまり問題ではないと考えます。

岩倉具視は孝明天皇から、当時は蟄居処分にされてます。

あの時代の公家という存在をなめてはいけません。

私の考えでは、同時の公家に倒幕、佐幕のどちらが日本の国にとって有益か?なんて考えはないと考えています。

というのも、公家といってもかなり貧乏な方が多く、また、何百年も政治に携わっていません。

政治力も無く経済力もなくあるのは帝のそば仕えしているというプライドだけですよね。

彼らが政治の実権を握りたいのは日本を運営したいのではなく、それに付随する利権が欲しいだけですよね。
(今更、政治をしろといっても仕方もわからないし面倒な事だが、おかねは欲しいというよな存在。)

それを実現するには非常に都合の良い時代だったと思います。
佐幕派の公家は世論を佐幕で統一すれば、そこそこのポストにつき利権を手に入れる事ができ、政治は幕府の方々が運営してくれるという願ってもない状況となります。
また、倒幕派の公家も同様に倒幕を実現すれば、そこそこのポストにつき、利権をを手に入れる事ができ、政治は倒幕派の首魁の方々が運営してくれるという願ってもない状況となるわけです。

要はどちらの札に賭けるかの博打だった訳です。
そこに思想は必要ない訳です。

しかしながら、倒幕派の公家にとっては倒幕だけでは物足りなく、徳川家をつぶさなければ意味がありません。
もし、倒幕を完成しても徳川家が存続するとポストが減るので、自分の地位を確保する為にはライバルが一つでも減った方が良い訳ですね。

結局、孝明天皇が死んだときに岩倉具視がどの思想を持っていたかは関係が無く、薩長土肥の方々からすれば岩倉具視は一番利用しやすい人物だったと考えられます。
(孝明天皇の愛妾堀河紀子は岩倉具視の姉妹)

薩長土肥としては孝明天皇がいる限り、賊軍となり、目ざわりな訳です。どうしても除きたかった。
(何が尊王や!!)

恐らく薩長土肥から話を持ちかけられ、岩倉具視も倒幕派に賭ける事になったのだ考えてます。

もし、天然痘だとすれば・・・。
天然痘は伝染病ですよね。
何故15人もいた医師に感染してないのでしょうか?

孝明天皇の死を区切りに会津藩は朝敵となります。
(あんなに官軍だったのに!!)

そして幕府は崩壊し、岩倉具視は明治政府で重職につきます。
(夢の地位を手に入れた?!)

ね、黒いでしょ。

最後に、アーネストサトウがこの事件について「重要な人物の死因を毒殺に求めるのは東洋諸国ではごくありふれたことである」なんて言ってます。
(日本において、重要人物の毒殺ってそんなに有名か?)

彼は明治維新にかなり関わった胡散臭い人物。
(恐らくこの事件の真相を知っている。)

ついつい口がすべりましたね。

岩倉具視がお札に使われたのはどうなんでしょうか・・・。



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posted by たか at 16:26| Comment(0) | 幕末 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月11日

中国ってすごい!

先日、中華人民共和国60周年記念式典が中国で開かれましたが、本当に中国という国は古い歴史を持ってます。

世界史を習うと恐らく最初に出てくる世界4大文明の一つ(黄河文明)から始まります。

伝説(と言われている)時代(三皇五帝の時代)を経て現状中国最古と伝承されている王朝は夏です。(といってもこれが夏王朝という決定的な遺跡が発見されてませんが・・・。)

夏王朝は紀元前2070頃〜紀元前1600年頃まで(初代の禹から末代の桀まで14世17代)と言われています。

その後殷王朝(商とも。ちなみに商売は商の人々が物を動かすことにより利益が発生することを発見した為商売というらしい)、周王朝とつながっていきますが、周王朝の時代に春秋戦国時代という時代に突入します。
(まあ、日本が室町時代に戦国時代に突入したようなものですよね。)

この春秋戦国時代は紀元前770年〜紀元前221年といわれてます。

恐らく、中国の原型はこの頃に造られたと思われます。

この時代、戦争の時代ではあった(550年も戦争してたのには驚き!)のですが、だからこそ、様々な学問が起こり後に諸子百家の時代ともいわれます。

有名な孫子、呉子に代表される兵法もこの時代(本当は数えきれない程の兵法書があったらしいのですが、淘汰されて現在残っているものになりました。要は使えない物も多かったのですね。)、儒家、墨家に代表される思想的な集団、縦横家(ショウオウカと読み、舌先三寸で国を動かそうとした人々。代表的な人物は張儀:チョウギ、蘇秦:ソシン 等)もこの時代に起こりました。
また、韓非子、管子に代表される法家思想も生まれています。

この時代に論じられた事というのは有益なものから本当にあほらしいことまで、様々でした。

有益なものは色々と有名な本(論語、書経等々)があるのでここでは紹介しませんが、あほらしい説を少し挙げてみます。

まず「堅白同異」。
内容は「白くて堅い石は手で触っている時には白いということは解らず、目で見ている時には堅いということがわからない。すなわち白いという概念と堅いという概念は両立しない。」という説。

また「白馬非馬説」というのもあります。
「白とは色の概念であり、馬とは動物の概念である。その為、この二つが結びついた白馬という概念は馬という概念とは異なる。」

まあ、どちらも公孫竜という人の説ですが・・・。

概念を分けて考えろということはわかりますが、まあ屁理屈もしくは詭弁の類ですね。

しかしながらこの人が活躍した時代は紀元前320年〜紀元前250年頃といわれてます。

日本では人物の名前として最初に出てくる卑弥呼(実は中国の歴史書に書かれている事なんですよ。日本の歴史書ではないです。)が三国志の「魏志倭人伝」ですので、180年頃〜250年頃の間となります。
(なんとそんな時代にこんなバカな議論をしていたとは・・・。)

先ほどの白馬非馬説から約500年経ってようやく人物の名前が出てくる訳ですね。(ちなみにもちろん文字はありません)

当時の中国からみた当時の日本はいわば現在の私たちが想像するアフリカの奥地や南米のジャングルの奥地に等に住んでいる原住民程度(もしうくはそれ以下か)だったのです。
(やはり中国恐るべし!)

また、古来より彼らは文化圏を黄河と長江で挟まれる平野部、いわゆる中原とし、その範囲からはずれる土地はすべて野蛮な国と考えていたそうです。(例えば後に劉備で有名になる蜀なども字の中に‘虫’が入っていたり、卑弥呼も卑しいという字が入っている。)

要は「世界の中心は自分達でそこから外れる人々は野蛮な人々」という理念を持っていたので、世界の中心の国ということで中国となるわけですね。

現在の中国人の多くはは自分自身の事を「漢民族」と呼びます。

しかしながら、漢という王朝は前漢が紀元前206年〜紀元後8年、後漢が22年〜250年とざっとトータル400年続いた王朝ですが、ごらんのとおり1759年前に滅んでいます。

それでもなお「漢民族」というのは何故なのでしょう・・・。
(京都の人が未だにミヤコビトというのと同じだろうか・・・。)

中国4000年の歴史・・・恐るべし!!
posted by たか at 04:03| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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