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2009年10月07日

関羽

本日は関羽雲長(カンウウンチョウ:雲長は字)について少し述べたいと思います。

河東郡解の人、兵一万に匹敵すると評される。
幽州にて劉備(リュウビ)、張飛(チョウヒ)と出会い、共に黄巾族討伐に義勇軍として参加しその後一時期を曹操(ソウソウ)の元で働くも劉備陣営に戻り、孫権の裏切りに会い臨沮で首を切られるまで劉備につき従った名将。

現在は関帝廟という関羽を祭る廟が世界各国のチャイナタウンにあり、商売の神として祭られている。

性格は同輩や目上の人に対しは傲慢だが目下や部下に対してはやさしい人物であったらしい。

また、春秋左氏伝を暗誦できるほど読み込み、文武両道の将。

ざっと話すと関羽の概略はこの通り。
(ちなみに、正史では泗水関で華雄を斬ったのは孫堅、白馬で顔良を斬ったのは関羽だが、その後文醜を斬ったのは曹操。まあどちらも一騎打ではないが・・・。)

もちろん、私も好きな武将の一人です。

出身地の河東郡では長生もしくは常生と名乗っていたようです。
(長生は字とも)

不確定な要素として、一般的には塩の密売に関っていたとされる。
その頃に悪徳代官(商人とも)を斬った為官吏に追われる身となり関所で名前を聞かれた際に空を見上げたら雲が浮かんでいた所から関羽雲長と名乗ったとか・・・。
幽州タク(単漢字にはあるが表示されず)県に逃れ、寺子屋で子供に学問を教えていた頃劉備、張飛と出会う。

この部分、私見を持っています。
恐らく塩の密売には関わっていたのでしょう。

また、お尋ね者となっていたのもあるのでは?と思います。
(名前変えてますしね。)

その頃の劉備は恐らく幇(宋代に起こる志を同じくする中国における秘密結社)のような物のリーダーで、張飛はその一員だったのでは?と考えております。

そこにお尋ね者の関羽は匿ってくれるよう依頼し、仲間になったのでは?と考えております。
(幇の結束は固い為。ちなみに楚韓戦争の際にも張良が項伯を匿った話が出てきますが、これも幇のようなものだったのでしょう)

関羽のイメージについて、少し納得がいかない所があるのですが、私も先ほど記載した「文武両道の将」また、冷静沈着な男・・・という部分。

確かに、勉強はしていたのでしょうが、あまり生かせてないような・・・。

例えば、同輩、目上を軽んじたりする部分なんですが、ここも孤立するという事を考えればあまり得策ではありませんよね。

また、孫権からの縁談話に対し、「犬の子に虎の娘はやれん!!」なんて言ってるあたり・・・。

プライドが高いのはわかりますが、同盟国の君主に対しちょっと得策ではなかったと思います。(短慮でしょ?)

ちょっと悪口になりましたが、私としては豪快に敵部隊に攻め込み、敵を打ち破り、一騎打ともなればかなり傲慢に攻めながらも相手をバッサリ斬って来る。

また、馬超が劉備軍に加わった時に諸葛亮に対し「どの程度の男?」なんて手紙を送ったり、関羽の性格を熟知している諸葛亮に「張飛とはいい勝負だけどひげ殿にはかないません」なんて持ち上げられて、いろんな人にその手紙を見せびらかしている能天気さ。

そういった部分に好感を持つ訳です。

ちなみに、どこのチャイナタウンにもある関帝廟。

こちらは義に厚かった関羽から信用を裏切らない人となり、商売の神様となったようですが、関羽が死んだ際に立て続けに呂蒙、曹操が死んだ為、人々が「関羽の呪」として怒りを鎮める為にまつった(日本でいうところの天神様)という説も・・・。


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posted by たか at 23:58| Comment(0) | 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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