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2009年10月15日

加藤清正は毒殺?

加藤清正は豊臣恩顧の大名。
賤ヶ岳七本槍の一人。
但し、七本槍の活躍は実は戦が決してから秀吉が自分の子飼いの武将に箔をつける為に突撃を命じ、その戦果を過大宣伝をしたもので、清正本人は後に七本槍の話をされる事を嫌ったとの事。

築城の名人にして、知勇兼備の猛将と言われています。
(熊本城は今なお名城として伝えられています。)

そんな彼は数々の逸話を持っていますが、そのあたりはいつか加藤清正をブログにて書くつもりですので、そちらで詳細を述べます。

関ヶ原の折は東軍につき奮戦。その後も名古屋城の普請などをこなし、家康に対して従順な姿勢を貫きます。

城普請の際は親友の福島正則が「家康の子供の城普請まで手伝わないといけないのか」と愚痴をこぼした際は「嫌なら領国に帰って戦準備をしろ」といったらしい。

しかしながら、豊臣家への忠誠は終生貫いた人物でもあります。

例えば、年始の挨拶等、徳川家康の元へ訪れる際に他の大名は家康に気を遣い直接挨拶に行くのですが、清正だけは一旦大阪城により、秀頼にご機嫌伺いをしてから家康の元へ行ったそうです。

また、1611年に二条城で家康と秀頼の会見が実現しますが、これに骨を折ったのも清正。

秀頼が家康に暗殺されることを恐れて会見をさせないようにしようとする淀の方に自分が同席することを話し、もし怪しげな行いがあった場合は家康と刺し違える覚悟を述べ、納得させたとの事。

結局、家康と秀頼の対面は秀頼に加藤清正、浅野幸長が従者として従う事により実現しました。

清正はその後、熊本に帰る船の中で病を発し、領国に帰ってから死去したらしい。
家康、秀頼の会見から3ヶ月後となります。
一応、死因は花柳病とされていますが、死体は真っ黒になっていたそうです。
(ちなみに、清正の死から2年後に浅野幸長も同じ病で死にます)

胡散臭いですよね。

私が家康ならば清正は邪魔です。

また、家康が知っていたかはわかりませんが、熊本城には本丸の最深部に「昭君之間」という部屋があり、鴬張りの廊下や外へと通じる隠し通路があったらしく、この部屋は豊臣家に何かがあった際に秀頼を匿う為の部屋を作っていたとの事です。
もちろんこの部屋は誰も使う事が無かったらしい。

それだけの豊臣家へ対する忠誠心を見せつけられて、しかもそれが知勇兼備の猛将となれば、家康の心中は穏やかではないですよね。

私ならば殺します。

私の読んだ本の中では、池波正太郎氏の「真田太平記」に清正の死が書かれていますが、その中では清正のお気に入りの料理人が実は忍者で、清正の食べる料理に毒をもった形で書かれています。

まあ、これが本当かどうかはさておき、やっぱり清正は毒殺されたのでは・・・。


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posted by たか at 16:13| Comment(2) | 戦国時代(日本) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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