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2009年11月10日

本能寺の変、光秀の勝算

本能寺の変については色々と説がありますが、明智光秀が勝ち残る可能性があったのかという事を考えてみたいと思います。

まず、信長の人生の中でここを襲われたら本当にまずいというタイミングは恐らく、金ヶ崎退き口と本能寺でしょう。

確実に息の根を止めるという意味ではやはり本能寺の方でしょうか。

まず、よく言われている通り柴田勝家は北陸、丹羽長秀は四国への渡航準備に追われている状況、滝川一益は関東、羽柴秀吉は中国と本能寺が真空状態になっていました。

この事件における光秀の動機はともかく、このタイミングで仕掛けて、信長を討つことはできますが、その後に自分も討たれるという事に気づかない男ではないと思うのですが、結果そうなってしまいました。

この時点において、光秀が勝つとすれば畿内の武将を味方につける事が必須ですね。

しかしながら、畿内の武将が全て従った場合、彼に勝つことはできたのでしょうか?

まず、徳川家康を味方につける事は可能でしょうから、東海方面は安全となります。

次に、一益はどうか…。

歴史でもそうでしたがすぐに帰ってくるのは難しいですよね。
(実際は北条に大敗しましたからね。)

という事で東は安泰ですね。

すぐに帰ってこれるのは秀吉、勝家でしょうか。

織田の各部隊に連携は考えられないですが、秀吉、勝家はタイミング的には数日の違いで畿内に帰ってくるでしょう。
(結果、連携したような形で畿内に攻め込む事が出来ます。)

そうなれば光秀としては本隊をどちらに向けるかというのが重要になってきますが、西から秀吉、北から勝家となると恐らく秀吉に向かうでしょう。
(勝家の部隊は天王山の天嶮で時間稼ぎできますからね。)

しかしながら、腹に長秀を抱えてますよね。

こう考えるとキャスティングボードを握るのはやはり長秀。

この軍団がどちらにつくかというところ。

神戸信孝のいるこの軍団が光秀につくとは考えられないので、やはり光秀は死ぬ運命にありましたね。

ただ、長秀が仮に光秀についたならば…。
光秀の独立はかなりの確率で成功したのではないでしょうか。
(でも99%成功しないですね。)

結局、長秀を味方につけない限り成功はない訳です。

本能寺の変の動機として色々と説がありますが、野望説は長秀の軍団を手に入れたらという本当に成功率の低い賭けとなりますので、どうも野望説はないのではないでしょうか?
(本当に野望で信長を討つのであれば、もっと緻密な策謀を考えれる男だと思います。)


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posted by たか at 15:25| Comment(0) | 戦国時代(日本) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月09日

くらわんか舟

今回もわが故郷枚方について記載します。

前回記載したおりに、送り仮名をつけのを忘れてしまいました。
すみません。

読めないですよね。

枚方は‘ひらかた’と読みます。

枚方には琵琶湖から大阪湾へそそぐ淀川が流れていて、古来より交通の要所でした。

枚方には「くらわんか舟」の話が残っています。

大阪と京都を結ぶ淀川には多くの船が行き来し、旅船は30石(荷物の積載量)が普通であったので、三十石舟ともいう乗り合い船でした。

その船の中で停船しようとする船を見つけ、その三十石舟に鍵爪を賭けて近づき、飯や汁物、酒等の飲食物を販売していた小舟が「くらわんか舟」と呼ばれていました。

‘くらわんか’という言葉の語源については、船頭達が「飯くらわんか、酒くらわんか、銭が無いからようくらわんか」と大声でがなりたてながら昼夜問わず商売した事に由来します。

ちなみに、くらわんかという言葉は「喰わないのか」、「喰う事も出来ないくらいの銭なしか」という乱暴で、挑発気味に言った言葉との事です。

このくらわんか舟、元々は枚方の対岸、高槻(たかつき)の柱本(はしらもと)が発祥と言われています。

柱本の船頭達は大阪夏の陣などで、徳川方の物資運搬に協力した功績で幕府から営業特権を与えられ、茶船の販売を始めるようになり、後に対岸の枚方宿に移るようになりました。
(この頃の枚方は宿場町として栄えていました)

この際に地元の乱暴な言葉遣いのまま飲食を売っても構わないという無作法御免の特権も与えられた為、身分の高い人に対しても「くらわんか」と叫ぶことが許されており、淀川往来の名物となっていました。

この商売は淀川の水運が鉄道へと変わる明治頃まで続きましたが、今では舟もなく、おかしや、店の名前にくらわんかの文字がつかわれているだけになってます。

しかしながら枚方宿のあった辺りには一部、当時を偲ばせる街並みが残っています。

その辺りの話もあるのですが、こちらは今度行ってきます。

写真等踏まえ、ブログにアップしようと考えてますので、また見に来てください。

今回の記事もまた、私が小さい頃学校で学んだ郷土史とWikipediaを参考にして記載しました。
posted by たか at 16:52| Comment(0) | 枚方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月08日

クイズ雑学王の再放送から

土曜日の夕方、見たいTVがなく、色々と変えていると‘クイズ雑学王’の再放送がやっていました。

途中から見たのですが、なかなか面白いテーマでした。

僕が見だしてからの問題で一番目は‘老中の籠は常に走っているが何故でしょうか?’でした。

正直、老中の籠が常に走っているのも初耳だったのですが…。

答えは、老中は何かあった際にすぐに登城しなければなりません。

重大な問題が起こったら当然、籠を走らせて登城することになります。

しかしながら、老中の籠が走って登城したのを見かけた江戸の庶民は「何かあったんじゃねえか」と大騒ぎになりますよね。

そうならないように、重大な問題が起こった時も、そうでない時も走って登城していたそうです。
(常に走っていたら特別話題にもなりませんもんね。)

二問目は‘幕末の大奥の中で女中達が行っていた小遣い稼ぎは?'でした。

江戸時代は大奥の女中ともなると位が高くなれば年収が約2,000万程度あったそうです。

しかしながら、幕末期のインフレ等々で貧しくなり、到底そんなお金が稼げなくなったのでお金を工面する為に小遣い稼ぎをしていたとのことでした。

答えは御用商人の同伴者として一般の庶民を連れてきて、大奥の中を見物料を取って見物させていたとのことでした。

庶民にとっては大奥は一度は見てみたいなんて思う人もいたのでしょうね。

御用商人は大奥への出入りは許可されてましたので、彼らに同伴させれば見学することは可能の為、見物料を取って稼いでいたそうです。

三問目は‘松竹梅は何を指すのか?’という事で、答えは

 松→長寿の象徴(常に葉が緑色で枯れない為)
 竹→出世の象徴(竹が急速に成長する様から)
 梅→生命力の象徴(冬を乗り越えて真っ先に花を咲かせる為)

とのことでした。

四問目は‘普通、馬に乗る時は必ず左側から乗りますが、武士が馬に乗るのは常に右側から乗ります。その理由とは?'でした。

これは知っていましたが…。

答えは武士は左腰に刀を差しますので、左側から乗ると馬をまたぐ際に刀が抜け落ちる可能性があります。
その為右側から乗っていたとの事でした。

他にもありますが、その内容は次回以降にします。
ラベル:幕末
posted by たか at 03:02| Comment(0) | 幕末 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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