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2009年11月06日

洞ヶ峠の日和見

とうとう例の本(株式会社一水社 青山誠氏著)「本当は恐い戦国武将たち」を読み終わりました。
(いやあ、時間がかかった。)
戦国時代の記事はしばらく休もうと思っていたのですが、まだまだ突っ込み所満載の為、書いてしまいました。

明智光秀は本能寺の変の後、以前から親交のある筒井順慶(大和郡山城主)に味方になるよう勧誘しました。
(まあ、自分の与力でもありますからね。)

筒井順慶は密かに援軍を出したようですが、すぐに秀吉に味方すると決め秀吉に連絡し、大和郡山城に籠城。

その為、合戦後秀吉から本領を安堵されました。

この行動は後に、どちらに味方をするのかを明確にしないことを「洞ヶ峠を決め込む」という故事を生みます。

例の本にはこの行動を下記のよう(概略)に説明してます。


光秀から書状を受け取った順慶は直ちに援軍を出し、山崎の合戦場に近い洞ヶ峠まで進軍したところでぴたりと行軍を止めます。

ここで形成が有利な方に味方しようと冷徹に計算し、秀吉軍の勝利が確定するとすぐに秀吉陣営に身を投じ、本領を安堵されました。

いかに親友であっても生き残りをかけた重要な局面ではそれを見殺すのも平気。

という事で、「ひどい男」と記載してます。


恐らくこのネタは、確か「絵本太閤記」がこう記載していたと思いますが、そういった物を見て適当に書いたのでしょうね。

しかしながら、実際は筒井順慶は洞ヶ峠まで行っていません。

洞ヶ峠に行ったのは明智光秀の方です。

筒井の援軍が来ないので洞ヶ峠まで見に行った訳ですね。

筒井は当初少数の援軍を出しますが、すぐに秀吉につくと決め、援軍も引き、大和郡山城に籠城したのが真相です。

この作者、あまりに薄っぺらい知識ですね。
(こんなこと、ちょっと調べればすぐにわかるほど有名な話なのに…。)

知らないのであれば援軍を出さなかった事に対してひどい男とすれば良かったのに…。

しかしながら、光秀と交友があったのに援軍を出さないのがひどい男っていうのもどうでしょうか。

大体、明智光秀が謀反を起こした訳ですからここは筒井にとって悪名を被るか、正義(歴史的、風評的な)を通すかの瀬戸際で、正義を選んだ訳ですよね。

また、筒井順慶にとっては自分の決める決断によって家臣達のその後を左右する訳ですから慎重に戦の帰趨を見守るのは正しいと思います。

別に責められる事ではないですよね。
(屁理屈で強引に恐ろしくしてはいけませんよ。)

本を出すんだからもう少し勉強してください。
posted by たか at 16:22| Comment(0) | 戦国時代(日本) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

秀吉は女好き?

豊臣秀吉は一般的には女好きとされています。

これは本当にそうなのかどうか判断が難しいところです。

実際、於寧(秀吉の妻。寧々というのは間違いの可能性があります。)が織田信長に対し秀吉の浮気について訴えたりしています。

まあ、男である以上、女が嫌いということはあり得ないと思いますが、巷で言われるほど、秀吉は女好きだったのでしょうか?

フロイスによると秀吉は300人位妾がいたとの事。

また、秀吉は虎を好んで食べたらしく、強壮剤として好んでいたという話もあります。

しかしながら、どうでしょう。

彼は子供が欲しかったのではないでしょうか?

一応、長浜時代に彼は南殿という女性との間に‘秀勝'が産れています。

その為、自分には子だねがあるが相手との相性の問題と考えていたのでは?と思います。
作家の加藤広氏も著書「秀吉の枷」(日本経済新聞社より出版)でこの説を取られておられました。

天下を統一し、豊臣政権を築いた訳ですが、彼の出自(一応、農民となってます。)の為、本来ならば居るはずの譜代の家臣がいないわけですよね。

この家臣団が欲しい為、色々と他家の武将を引き抜いたり、地元から縁者や同郷の人を集めて必死になっていたのでしょう。

賤ヶ岳の合戦では七本槍なんて大げさな名前を付けた(実質、戦が決してから彼等は突撃したらしい。)のも自分の子飼いの武将に箔をつけるためと考えられます。

そう考えると、涙ぐましいですね。

そんな彼はてっぺんまで上り詰めた訳ですからどうしても後継ぎが欲しかったのでは?その為、多くの女性を妾にして子作りに励むという事も理解できます。

また、虎の肉を好んだのも、老齢になって来るとどうしても強壮剤が必要になり、そういった物に手を出さざるを得なかった事と、小柄で病弱な決して武将向きではない自分に対し、獰猛で体格も大きい虎を食べることである種の自己満足となっていたのでは?と思えてなりません。

そう考えると、本当に涙ぐましい限りです。



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posted by たか at 03:27| Comment(0) | 戦国時代(日本) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月05日

わが故郷枚方

私は大阪の枚方に住んでいますが、もっと限定すると、サダ(足ヘンに差と書いて‘サ’、足ヘンに它とかいて‘ダ’と書きます。単漢字には登録されていますがブログをアップした際にダが表示されません。)と言い、この地名は地図には出てきません。

しかしながら‘サダ’という字のついた学校や幼稚園、保育園が多くあります。
(私の通っていた中学校は国道1号線から見える位置に有り、大きな看板を掲げていますが、この‘サダ’という字が読めないので、何て読むのか?という質問の手紙がよく来たそうです。)

そもそも、この‘サダ’という地名は菅原道真公に由来します。

延喜元年(901年)、菅原道真公が太宰府へ左遷される途中、山の上で休憩したのですが、その後を娘の苅屋姫が追いかけたが、あと少しの所で間に合わず、足摺り(地団太踏んだとも)して嘆いたと言います。

その事からその山を「サダ山」と呼ぶようになりました。

太宰府でその話をきいた道真公は三尺二寸の自身の木造を作り、苅屋姫に送りました。

その後、天暦5年(951年)、サダ山に社殿を造営して木造を近隣25箇村の産土神として祀り、サダ神社が出来ました。

慶長19年(1614年)の大阪冬の陣の折、社殿は焼失したが、神像は無事で現在の位置(枚方市南中振)に再建されたとの事です。

江戸時代までは境内には聖徳太子が開基したと伝えられ龍光寺があり、宮寺とされていたが、明治の神仏分離で廃され、仏像や曼陀羅等は近くの浄土院に移されたそうです。
(薩長コノヤロー!!)

菅原道真公を祀る天満宮は各地に有りますが、大体建立時期が950年前後です。

これは菅原道真公の死(903年)後、平安京で雷などの天変が相次ぎ、清涼殿への落雷で大納言藤原清貫が亡くなった事から人々が「道真公のたたりじゃ!」と言って恐れ、その怒りを鎮める為に社殿を建立した訳ですね。

今回の記事は私が小さい頃に学校で学んだ郷土史とWikipediaを参考に記載しましたが、サダ神社は移転されていた事を初めて知りました。

また、この記事自体、サダ山で書いています。
(山と言ってもそんなに高い山では無く、丘程度ですが…。)

これからも‘サダ’については記載していきます。
ラベル:枚方
posted by たか at 15:37| Comment(2) | 枚方 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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