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2009年11月02日

三木城、鳥取城の兵糧攻め

昨日、例の本のつっこみで秀吉の記事を記載しましたがその中でお話しました三木城と鳥取城の兵糧攻めについて記載したいと思います。

まずは三木城。

この攻略戦は1578年に羽柴秀吉が毛利攻めの先鋒となった事から始まります。

当初、織田家に降伏していた三木城主別所長治が離反した為、秀吉が討伐に向かいます。

これに対し、別所長治は東播磨一帯から約7500人が集まり、籠城しました。
籠城したメンツは別所軍団以外に別所氏に同調した国人衆、その家族、浄土真宗の門徒党がいたとの事。

この城を兵糧攻めにするのですが、当初は兵糧の補給路があったのですが、一つ一つ支城を落としたり、反対勢力の攻略、宇喜多氏の寝返り等の末、外部からの補給路をなくします。

また、その間、別所長治は2度出陣しますが、いずれも敗北。

結局、城内の食糧はつき、軍馬、犬猫、木の皮等もつき、餓死者が続出した為、秀吉からの降伏勧告を受け、城主一族の切腹で籠城選が終了します。
世に「三木城の干し殺し」と言われた籠城戦です。

秀吉は籠城戦で亡くなった方々を手厚く葬った為、この地域の方からはあまり恨まれていません。
(ちなみに、この合戦中に竹中半兵衛が陣中で没します。)

鳥取城の方は「渇え殺し」と言われた籠城戦で、三木城の籠城戦よりも用意周到です。

若狭から商船を因幡へ送り、米を高値で買い占めさせ、城下町を焼き、その地に住む農民たちも城へ追い込みます。

毛利勢が河川や海から兵糧を運びこむのを阻止して、城を囲みます。

この時、兵糧は20日分しかなかったそうです。

4か月も経つと城内の家畜や植物は食いつくされ、餓死者が続出し、人肉を食らう者まで出てきます。

また、逃げようとして秀吉の陣に近づいてきた人を討ち殺して、出て来れないようにします。
この討たれた人に人が群がり、人肉を食べる訳ですが、特に脳がおいしいらしく、頭を取りあいしていたようです。

結局、城主吉川経家の切腹で籠城戦が終わります。

三木城籠城戦も鳥取城籠城戦も開城後に秀吉軍が大きな釜でおかゆを炊いて飢餓に飢えている人達に振舞いましたが、その際、急激におかゆを食べすぎて死ぬ人が続出したとの事です。

以上がこの2つの城の籠城戦の概略ですが、兵法からすると、城を落とすのに一番自軍の被害が少ない戦法です。

いくら城を攻め取っても、自軍の被害が甚大であればそこを維持する事ができません。

その為、効率的ですが、同時に非常な戦法でもあります。

兵糧攻めの狙いは城主がその城の中にいる家臣やその家族、農民達が飢餓に苦しむのを堪えかねなくなってギブアップするのを待つ戦法です。

その為、鳥取城の兵糧攻めのように城内からの逃亡者を許さない訳です。

結局、城内は目も当てられない程の凄惨な光景となってしまいます。

また、城主の判断により、死者の数も左右されます。

戦争というのは本当に悲惨な所業ですね。
posted by たか at 15:24| Comment(0) | 戦国時代(日本) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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