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2009年11月22日

邪馬台国はやっぱり奈良?

11月21日放送の「世界・不思議発見!」は卑弥呼についてでした。

この放送の主題は「卑弥呼は殺されていた!」という事ですが、こちらについては後日、ブログで記事をアップします。

前にこのブログでも記載したように、私はこの時代の事をあまり知りませんが、邪馬台国論争について色々と面白い事を放送してましたので、今日はこちらを記載したいと思います。

11月10日に奈良県桜井市で国内最大規模の大型建造物の跡が見つかったと発表されましたが、その建造物跡の近くにある纒向(まきむく)遺跡(発見された建造物も纒向遺跡の一部なんでしょうが)の箸墓(はしはか)古墳は昔から卑弥呼の墓とされていました。

その箸墓古墳ですが、建造年代が卑弥呼の死んだ年とほぼ一致したという研究結果が発表されたそうです。

この発表により300年に及んだ邪馬台国論争は奈良でほぼ決定とみられそうです。

最近見つかった桜井市の大型建造物跡は何と東西南北にきっちりとそろえているそうです。

あの時代にどうやって東西南北を知ったのでしょうか…。

まあ、世界の遺跡にはそういった物が多くみられるので何らかの方法をとったのでしょうね。

今のところ、纒向遺跡以前の弥生時代や他の時代の建物というのは東西南北にきっちりとそろえた建物はなく、纒向遺跡以降、東西南北をそろえて建物を建てるという事が始まったとの事です。

ちなみに、いつもこういった跡が発見された際に「柱とかは発見されないのかな?」と疑問に思いながらも「まあ腐ってなくなってしまってるんだろう」なんてひとり納得していたのですが、この放送で理解できました。

というのも、昔は建物が無くなる時に柱を抜き、次の建物に使ったのが普通だったそうです。
(いわゆるリサイクルですね。)

話を戻しますが、年代的に考えればこの発見された建物が無くなるのと入れ替わりで箸墓古墳の築造がスタートしたそうです。

宮殿があって人が住んでいた時には箸墓古墳はまだ存在せず、建物が無くなると同時に箸墓古墳の築造がスタートしたとすれば、古墳は墓ですから普通に考えれば、この宮殿に住んでいた人の墓では?と思えますよね。

さらに、箸墓古墳が卑弥呼の墓といわれているという事は、この発見された宮殿に住んでいたのは卑弥呼という可能性が大という事になりますね。

日本にはほかにも卑弥呼の墓といわれている所がありますので、ただ単にここに住んでいた豪族の長の宮殿および墓という可能性もありますが…。

また、この出土物の中に絹織物でできた巾着袋があり、赤の染料であるベニバナの花粉も纒向で発見されているそうです。

卑弥呼は中国の魏王朝に赤い絹織物を献上したそうですが、この巾着袋は赤い絹織物を作っていた証拠といわれているそうです。
(赤の染料ベニバナもあるし…。)

これだけ証拠がそろいだしているにも関わらず、頑強に九州説を唱える人はいます。

先日のブログでも述べましたが、観光資源としてどうしても譲るわけにはいかないのでしょうね。

こうなれば、239年に魏帝(曹叡/そうえい か曹芳/そうほう)から送られた「親魏倭王」の金印紫綬か、一緒に送られた銅鏡100枚他の下賜品が見つからない限り決着はつかないのでしょうか?

でも、冷静に考えたら「親魏倭王」の金印紫綬は次の王朝が受け継いで所有するだろうし、またその次の王朝と…ずっと受け継がれててもおかしくないような気がしますが…。

まあ、現状これだけそろっているんですから、今後、他にも色々と出土されるでしょうし、ここが邪馬台国と特定される日も近いのではないでしょうか?
ラベル:邪馬台国
posted by たか at 03:06| Comment(0) | 邪馬台国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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