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2009年12月13日

孫策の死

孫策(ソンサク)といえば三国志の中で、一瞬ではありますがものすごい輝きを発してはかなく消えた武将というイメージがあります。

彼は、三国志前夜といってもいい黄巾の乱(コウキンノラン)で頭角を現す孫堅(ソンケン)の長男です。

この孫堅は海賊退治で名を挙げ、役所に仮の尉(警察・軍事担当)に任命され、その後は色々と功績を挙げいくつかの県の次官を歴任。
その間に自らの軍団の強化に努め、黄巾の乱の折鎮圧の為に挙兵。
数々の戦場で手柄を立て、乱の一応の鎮圧後も涼州(リョウシュウ)での反乱鎮圧、荊州(ケイシュウ)での反乱鎮圧等の功績を挙げ、長沙の太守となります。
(本当は荊州の反乱を鎮める際に長沙の太守として赴任します。)

その後反董卓(トウタク)同盟に参加し、華雄(カユウ)を討ち取ったり(三国志演義では関羽/カンウ が討ち取りますが、本当は孫堅です。)洛陽一番乗りの功績を残します。
この戦いの頃から袁術(エンジュツ)派閥に属するようになり、反董卓同盟が事実上瓦解した後袁紹(エンショウ)と袁術が対立し始めると、袁術は孫堅を使い袁紹派閥の荊州の劉表(リュウヒョウ)を攻撃させます。
しかしながら、この戦いのさなかに流れ矢?に当たり絶命します。
(敵の落とした落石の下敷きになったという話も…。)

長男である孫策は父の軍団を率い、袁術に寄る事になりますが、袁術はここで孫堅軍を自軍に吸収します。

袁術は孫策の才能を愛し「わしの息子にもこれぐらいの器量があれば」と常々言っていましたが、決して孫策を信頼することはなく、彼に軍権を与える事をしませんでした。

結局、孫策は袁術に対して父の兵の返還を求め、約1000人の兵を得る事に成功します。
(この際に玉璽を質に入れたとも。ただ、孫堅の残した兵はもっと多かったようですが、セコい袁術は1000人強の兵しか授けなかったそうです。)

約1000人の兵を率いた孫策の元に多くの兵が集い、5000人以上に膨れ上がったそうです。

その兵力で江東に地盤を築き袁術から独立を果たします。
(都合のいい事に袁術が皇帝を名乗った為、大義名分を探す事もなく独立できました。)

孫策が袁術から兵を与えられたのが194年、孫策が死ぬのが200年ですから、たった6年の間に三国志で「呉」と名乗る国の基礎を作り上げました。
(死ぬ際、弟の孫権/ソンケン に地位を譲りますが、この人は殆ど領土を広げれなかった。まあ、荊州の右半分は取ったか…。)

本当に驚異的な事です。

そのスピードはある意味曹操(ソウソウ)に匹敵するほどの領土拡大スピードです。

その力を見て人々は「小覇王」と呼びました。
(覇王は漢王朝ができる際に出現した英傑、項籍/コウセキ の事。ちなみに、「項羽と劉邦」という司馬遼太郎氏の小説が有名。)

この時、曹操はというと北にいる袁紹派閥から独立し、袁紹と雌雄を決するという非常に重要な時期でした。

曹操は孫策を討逆将軍に推挙し、皇帝から勅許を得たり、縁談を持ちかけたりと袁紹との決戦を前に孫策を味方に取り込もうとしてました。

しかしながら、彼は曹操と表面上の友好を保つのと同時に、曹操が袁紹と戦争している時期に曹操の本拠地である許昌(キョショウ)を突こうと画策してました。

そんな折、彼は以前殺した許貢(キョコウ)の残党に長江のほとりで襲撃され、この時の傷が元で死に至ります。(享年25歳)

一説には、刺客の使った矢にトリカブトの毒が塗られていて、これがもとで死んだとの事。

また、その際に射ぬかれた右ほほ(だったと思います。うろ覚えです。)の傷を鏡で見た所、傷によって醜い顔になっていた為「こんな顔では生きていけない」といったとか…。

当時の中国は儒教社会。

見た目はかなり重視された時代ですので、別に彼がナルシストという訳ではなく、当然の発想だったんですね。

それよりも、この孫策の暗殺時期。

曹操にとっては時期的にあまりにも都合がよすぎると思われます。

私的な考えですが、やはりこの刺客は曹操が雇った者ではないでしょうか。

何冊か孫策の暗殺は曹操の手引きという小説は読みました。
(確か私の読んだ中では陳瞬臣氏の「秘本三国志」と北方謙三氏の「北方三国志」がそう書いていたと思います。)

私もそれに賛成です。

画策したのは曹操のブレーンと思われます。

まずは荀ケ(ジュンイク)。

この人は官渡(カント)の戦い(曹操と袁紹の戦い)の折も裏で色々と画策していた形跡があります。

曹操は自軍の約10倍近くある袁紹との戦いにおいて劣勢になり、許昌まで引き返そうと荀ケに手紙を送ってますが、その返信で荀ケは「今が我慢のしどころ。袁紹軍にも寝返ってくる人達がそろそろ現れる頃。その時に奇策を持って当たれば袁紹軍に勝利できる。」といった内容の手紙を送ってます。

この手紙は荀ケの明晰な頭脳から割り出された予測かも知れませんが、彼が寝返り工作をしていたようにも取れます。

荀ケは全体の勢力を見渡して、常に曹操が優位に立つように献策してきた、いわば外向型の軍師。

当然、孫策を江東に閉じ込める事か、除く事を考えるでしょう。

そう考えると孫策の暗殺は荀ケの策という気もします。

また、もう一人画策していたのでは?と思える人がいます。

それは郭嘉(カクカ)。

郭嘉は曹操が袁紹と戦うかどうかという軍議の中で、孫策を懸念する声に対し「孫策は江東制圧を急ぐあまり、苛烈な粛清を行って多くの人から恨みを買っているにも関わらずそれを警戒していない。その為、近いうちに暗殺されるだろう。」と予見してます。

まあ、頭脳明晰な郭嘉としては状況分析から出た予測かも知れませんが、許昌に攻め込む前に孫策が暗殺されると言い切れる自信はどこから来たのでしょうか…。

そう考えると郭嘉が刺客を送ったとも考えられます。

多かれ少なかれ孫策の暗殺に曹操が絡んでいたのは事実だと考えてます。




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posted by たか at 01:56| Comment(0) | 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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