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2010年04月16日

池田屋の階段

池田屋は恐らく、幕末に詳しくない人でもその名を聞いた人はいるんじゃないでしょうか…。

新撰組を一躍有名にした場所ですね。

映画、「銀ちゃん!」で有名な蒲田行進曲でも池田屋のシーンがありますね。

池田屋でイメージする所というと、あの大きな階段を近藤勇が上って出てきた志士を斬り、その大きな階段を斬られた志士が転がり堕ちるシーンだと思いますが…。

あれは全くのフィクションです。

大体、当時の京都の宿で玄関入ってすぐにあんな大きな階段がある宿はないですね。

というのも、昔の京都は玄関の間口で税金が決まっていたとか…。

その為、間口を小さく、奥に長くという家、宿、店が多かったんですね。
(今でも京都の古い家やお店はそうなってます。)

狭い間口に大きな階段を作る事は不可能なんです。

その為、本当の池田屋は人が一人通れる程度の幅の階段しか無いんですよ。

京都東山の霊山歴史館に池田屋を再現した模型がありますので、興味のある方は一度ご覧になられたらいかがかと思います。

現在では池田屋は無く、池田屋跡という石碑が建っているだけなんですが、最近、居酒屋「池田屋」ができたそうです。

ずっと気にはなっているのですが、まだ行けてません。

太秦映画村の監修であの大きな階段があるそうです。

ウソなのにね。

でもかなり興味がありますね。

最近はお日柄もよく(でも今週は寒いですが…)そろそろ京都散策に出かけたいと思っている今日この頃です。




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posted by たか at 02:16| Comment(0) | 幕末 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月15日

徐庶の名前

徐庶(ジョショ)字を元直(ゲンチョク)、悲劇の軍師として三国志演義では描かれている人物です。

私が三国志の登場人物の中で一番好きな人物でもあります。

この人は三国志演義の中で最初「単福/ゼンフク、ゼンプク、タンプク等々」という名前で出てきます。

これは三国志演義の作者の誤解です。

三国志演義というのは正史三国志を元に記載された小説なんですが、その正史三国志の中で「単家(タンカ、ゼンカ等)の出身である」という記述があります。

これを見て、三国志演義の作者は「単」というのが姓と勘違いしたようです。

単家というのは姓の事ではなく、中国独特の表現で「権勢のない家柄、(或いは寒門)の出身である。」という事なんですね。

また、福という名前ですが…。

これも正史三国志の記載で「元の名は福であり…」というくだりがあるので採用したようです。

この福に関しては正しい解釈です。

元々、徐庶は「徐福(ジョフク)」という名前だったんですね。

ちなみに…始皇帝の頃にも徐福は出てきます。

彼は始皇帝に対し「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と言って東方に船出した男です。

日本に辿りついたという噂も…現に和歌山には彼の墓があるとか…。

「不死の薬を名目に始皇帝から物品をせしめた詐欺師」と描かれる事もあります。

勿論この徐福とは別人です。
(そら400年くらい話が離れてますもんね。)

話がそれましたが…。

この男、徐福から徐庶に名前を変えたのは、実は魏に仕えて御史中丞(ギョシチュウジョウ)まで出世しますが、この頃はまだ徐福だったそうです。

徐庶に名前を変えるのはもっと晩年だったとの事です。

この御史中丞という役職ですが…。

諸葛亮(ショカツリョウ)が晩年に「徐庶が御史中丞程度の官職とは魏は人材が豊富なんだな」というような内容の記載が正史三国志にあるので、かなり低い役職と思われがちですが、実際は副総理位の役職のようです。

州の刺史(州を治める長官)を監督する仕事もこの御史中丞だったそうですから…結構高い官職なんですよ。

また、話がそれましたが…要は劉備(リュウビ)に仕えていた頃の彼の名前は「単福」でも「徐庶」でもなく「徐福」なんですね。

またまたちなみに…。

この人、実は600年くらい後の話にも登場します。

倒れていた村人を助けた仙人が、その村人に名前を聞かれると「徐庶じゃ」と答えたそうです。

彼は仙人になっていたんですね…。

んなあほな!!!




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posted by たか at 02:15| Comment(0) | 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月14日

劉巴という硬骨漢

劉巴(リュウハ)字を子初(シショ)という人がいます。

恐らく、印象に残っているのは劉備(リュウビ)の配下になってからではないでしょうか?

しかしながらこの男、実は208年に曹操(ソウソウ)が荊州(ケイシュウ)に侵攻した際、多くの人士が劉備に従ってなんかする中、残って曹操に仕えています。

その元で長沙(チョウサ)郡等、荊州南部の三郡を平定する任務を受けますが、曹操が赤壁(セキヘキ)で敗北し、劉備が荊州南部に攻め込んできた為、曹操の元に戻れなくなります。

ここでも、劉巴は劉備の配下になる事を嫌い、もっと南の交州(コウシュウ)まで逃げます。

その後、太守と不和になり、益州(エキシュウ)の劉章(リュウショウ)に仕えます。

劉章が劉備を益州に招こうとした際に黄権(コウケン)と共に猛反対もしています。

これだけ見ていると、かなり劉備が嫌いなんでしょうね。

その後、劉備が益州を治めるようになると、劉巴は以前の罪を詫び、劉備もとがめず、劉備に仕官を乞われた為、劉備配下になります。

この男、かなり政治能力に優れていて諸葛亮(ショカツリョウ)と共に蜀科(蜀の法律)を作ったり、その他政策において功績をあげています。

ちなみに、4月9日のこのブログで記載した陳羣(チングン)は敵勢力であるにも関わらず、諸葛亮宛てに手紙を出し、劉巴の消息を聞いたりしています。

この時代、名士と呼ばれる人達は敵勢力であっても交流があり、名士サロンのような物を形成していたようです。

劉巴は敵勢力からも消息を聞かれるほど有名な名士だったんですね。

そんな名声にあこがれて…。

劉備の片腕である万夫不当の張飛(チョウヒ)が交流を持ちたいと思い、劉巴にアプローチするのですが、これがまた…劉巴は話をしようともしなかったそうです。

張飛もかなり腹を立てたので、諸葛亮が劉巴にとりなした所…。

「大丈夫(立派な男)がこの世に生をうけたからには、当然四海の英雄と交わるべきです。どうして一兵卒と語り合う必要がありましょうか。」
と言って張飛と全く親交を結ぶ事がなかったそうです。
(ちなみに、一兵卒は張飛を指してます。)

これを以て当時は士大夫と庶民との間に厳然たる身分差や差別があったと言われますが…。

あったのはあったのでしょうけど、この考え方はむしろ、中国の根本的な考え方を表しているといえます。

中国では文を第一とします。

いくら万夫不当の豪勇を持っていても、優れた知識を持っていなければ所詮「匹夫の勇」と言われます。

恐らく、劉巴は張飛を「匹夫の勇」と侮っていたのでは?と思います。

ただ、張飛と言えば主君である劉備の股肱の臣。

そんな男にも反発心をはっきりと言える劉巴はある意味凄いですね。

劉備に従うのを潔しとしなかったのも…これは劉備も含めてバカにしていたのでしょうか?

となると、やはり士大夫と庶民の差別なんでしょうか…。
(ちなみに劉備は中山靖王劉勝/リュザンセイオウリュウショウ の末裔とされますが、あくまで自称で、世に出る前は筵や草鞋を売って生計を立てていました。)

劉巴、恐るべし。




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