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2010年04月14日

劉巴という硬骨漢

劉巴(リュウハ)字を子初(シショ)という人がいます。

恐らく、印象に残っているのは劉備(リュウビ)の配下になってからではないでしょうか?

しかしながらこの男、実は208年に曹操(ソウソウ)が荊州(ケイシュウ)に侵攻した際、多くの人士が劉備に従ってなんかする中、残って曹操に仕えています。

その元で長沙(チョウサ)郡等、荊州南部の三郡を平定する任務を受けますが、曹操が赤壁(セキヘキ)で敗北し、劉備が荊州南部に攻め込んできた為、曹操の元に戻れなくなります。

ここでも、劉巴は劉備の配下になる事を嫌い、もっと南の交州(コウシュウ)まで逃げます。

その後、太守と不和になり、益州(エキシュウ)の劉章(リュウショウ)に仕えます。

劉章が劉備を益州に招こうとした際に黄権(コウケン)と共に猛反対もしています。

これだけ見ていると、かなり劉備が嫌いなんでしょうね。

その後、劉備が益州を治めるようになると、劉巴は以前の罪を詫び、劉備もとがめず、劉備に仕官を乞われた為、劉備配下になります。

この男、かなり政治能力に優れていて諸葛亮(ショカツリョウ)と共に蜀科(蜀の法律)を作ったり、その他政策において功績をあげています。

ちなみに、4月9日のこのブログで記載した陳羣(チングン)は敵勢力であるにも関わらず、諸葛亮宛てに手紙を出し、劉巴の消息を聞いたりしています。

この時代、名士と呼ばれる人達は敵勢力であっても交流があり、名士サロンのような物を形成していたようです。

劉巴は敵勢力からも消息を聞かれるほど有名な名士だったんですね。

そんな名声にあこがれて…。

劉備の片腕である万夫不当の張飛(チョウヒ)が交流を持ちたいと思い、劉巴にアプローチするのですが、これがまた…劉巴は話をしようともしなかったそうです。

張飛もかなり腹を立てたので、諸葛亮が劉巴にとりなした所…。

「大丈夫(立派な男)がこの世に生をうけたからには、当然四海の英雄と交わるべきです。どうして一兵卒と語り合う必要がありましょうか。」
と言って張飛と全く親交を結ぶ事がなかったそうです。
(ちなみに、一兵卒は張飛を指してます。)

これを以て当時は士大夫と庶民との間に厳然たる身分差や差別があったと言われますが…。

あったのはあったのでしょうけど、この考え方はむしろ、中国の根本的な考え方を表しているといえます。

中国では文を第一とします。

いくら万夫不当の豪勇を持っていても、優れた知識を持っていなければ所詮「匹夫の勇」と言われます。

恐らく、劉巴は張飛を「匹夫の勇」と侮っていたのでは?と思います。

ただ、張飛と言えば主君である劉備の股肱の臣。

そんな男にも反発心をはっきりと言える劉巴はある意味凄いですね。

劉備に従うのを潔しとしなかったのも…これは劉備も含めてバカにしていたのでしょうか?

となると、やはり士大夫と庶民の差別なんでしょうか…。
(ちなみに劉備は中山靖王劉勝/リュザンセイオウリュウショウ の末裔とされますが、あくまで自称で、世に出る前は筵や草鞋を売って生計を立てていました。)

劉巴、恐るべし。




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posted by たか at 02:12| Comment(0) | 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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