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2009年10月27日

桶狭間という名の招く誤解

桶狭間は織田信長のメジャーデビューの戦として多くの人に知られています。

また、‘桶狭間古戦場’という史跡が2か所存在していることも有名な話です。

ある人(昔読んだ本なので誰がどんな記事で書いたかは忘れましたが)は2か所ある史跡について、1つは本当に信長が今川義元を急襲したところで、もうひとつは掃討戦で戦があった場所では?という見解を述べておられました。

一般的にはこの戦、今川義元が京を目指して進軍を開始したが尾張に入ったところ、織田信長の奇襲によって討ち取られた戦となってます。

しかしながら、駿河から京を目指した場合、その途上には織田、斉藤、浅井、六角といった面々がいる訳ですからどうも京を目指したというのは無理がありますよね。

恐らく、尾張に攻め込んだだけなんでしょう。

先ほども述べましたが、織田信長は奇襲をした事になっています。

それは桶狭間という名前が微妙に絡んでいます。

字を見ただけではどうも谷間というイメージがあり(実際に谷間として書かれている本もあります。)ますが、兵法として谷間に陣取るということはあり得ません。
(太原雪斎の教えを受けた義元がそんな初歩的ミスはしないでしょう。)

実際は「桶狭間」ではなく「桶狭間山」なんですよね。

これならば陣取る場所としては納得がいきます。

しかしながら、山頂(小さな山だが)に陣取るとなると、奇襲は成功しにくい状況にあります。

また、熱田神宮に集合した織田軍が桶狭間へ向かうと東海道を2回横切ることになるようです。

いくらお公家様大名の今川義元でも大きな街道を2回横切る軍を見逃すような事はないでしょう。
(もしかしたら相当な迂回をしたのかも知れませんが・・・。)

信長公記によると、熱田神宮から東に向かった旨が記載されているだけで、奇襲も何も記載されていないということです。

となると、正々堂々と正攻法で挑んだのかも知れません。

また、この戦で今川義元に初太刀を浴びせたのが服部小兵太、打ち取ったのが毛利新助となります。

しかしながら、彼らはあまり信長から評価されていません。
(普通は大将首を取ったら大きな報償をもらうものだが・・・。)

服部小兵太はその後目立った活躍がないまま、秀吉の時代に松阪城城主に抜擢されますが、その後、豊臣秀次の失脚に連座して切腹となります。

毛利新助もまた、桶狭間以降目立った活躍もないまま(部隊長にもなっていません。)本能寺の変で信長の長子信忠と奮戦し、二条城で壮絶な最期を遂げます。

二人とも信長が飛躍する契機となった戦で手柄を立てたにも関わらず、あまり活躍の場がないのは不思議なところ。

また、この戦で一番手柄となったのは情報収集、作戦立案した簗田政綱(ヤナダマサツナ)。

彼も沓掛城主になったというが、その後の活躍があまり分かっていません。

どうも、何か引っかかる戦、それが桶狭間ですね。

ちなみに、日本における騎馬隊は100%騎馬隊というのはなく、1騎の騎馬に対し12〜26名(数字はうろ覚えです。確かこのあたりだったような・・・。)の足軽が付き、騎馬武者の役目は槍等で相手をたたきつけたり、騎馬から落としたりする役目で、つき従った足軽がとどめを刺し、首をあげるという形だったようです。

しかしながら、この戦が奇襲だったという説では、日本では珍しい100%騎馬隊の部隊であったようです。
(確かこの部隊と源義経の鵯越だけだったような記憶が・・・。)


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posted by たか at 16:02| Comment(0) | 戦国時代(日本) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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