ブログランキング【くつろぐ】
スポンサードリンク

2010年01月15日

三国という時代は無い

中国において正史と認められる書物は24あります。

その中に陳寿(チンジュ)の書いた三国志も正史として認められています。

しかしながら、三国という時代は中国にはありません。

一般に三国志と言われる時代は後漢末〜晋王朝による天下統一までの間を指す事が一般的ですが歴史上の王朝名をたどってみますと

後漢⇒魏⇒晋

となります。

王朝としては後漢最後の献帝(ケンテイ)から曹丕(ソウヒ)が220年に禅譲(前の皇帝から皇帝の位を譲られる事を言いますがこの場合は曹丕が献帝を脅迫して位を奪い取りました。)を受けて魏王朝を樹立します。

その魏王朝も265年に5代目曹奐(ソウカン 元帝)から司馬炎(シバエン)が禅譲(これまた脅迫して位を奪った)を受けて晋王朝を樹立します。

まあ、歴史の流れで行くとこういう形ですが、280年に呉を滅ぼし、天下を統一します。
(ちなみに蜀は263年に魏に滅ぼされます。)

三国という時代は日本に例えると室町時代に含まれる戦国時代のようなニュアンスと言った感じでしょうか。

三国志の本や小説を読むと大体184年の黄巾の乱から書き始めて234年の諸葛亮の死を持って終わっています。

厳密な話をすると…。
三国という時代は220年に魏が漢王朝を滅ぼした(形は禅譲)事に対し自称前漢の中山靖王劉勝の末裔である劉備が「漢王朝はまだ生きている」という意味を込め皇帝となり蜀漢を建国します。
それに対抗して孫権は魏に下り、221年呉王となり、その後229年に皇帝となり、中国に3人の皇帝が立ちます。

この、3人の皇帝が立った時代を三国時代と言います。

三国志の謎とか言ったタイプの本に良く見られますが、「実は四国志だった!」という記事を何度か目にした事があります。

これは、この時期に遼東郡(中国の右上の方)にて公孫淵(コウソンエン)という太守が238年に燕王を自称した事を指して実は四国だったという訳ですが、この説はナンセンスとしか言いようがないですね。

燕王はあくまで燕王で皇帝ではないのです。

いわば、烏丸(ウガン)、匈奴(キョウド/フンヌ)などの異民族と変わらない位置づけとするのが普通と思われます。

話を元に戻しますが、三国時代は中国に皇帝が3人現れた時代ですので、厳密に言うと孫権が呉皇帝に即位した229年から、蜀が滅ぼされる263年のわずか34年の間を指す事になります。

しかしながら、多くの小説等は三国志を諸葛亮が死ぬ234年に筆を置いていますがそうなると本当の意味での三国時代の記述はわずか5年分となります。

色々とややこしい事を書いてきましたが多くの小説に対して、黄巾の乱から三国鼎立時代までの45年間を詳しく書いているんですから、諸葛亮の死で筆を置くのではなく、呉が滅ぶ280年まで書いてみてもいいのでは?なんて思います。

勿論、諸葛亮が死ぬと、その活躍を期待したい武将がいなくなりますし、以前このブログでも書いたように組織戦ばかりの世界になってますので血沸き肉躍るというような出来事はあまりないので話として面白くするのは難しいかと思われますが…。

諸葛亮の死後も一般的に名将と言われる人達は活躍します。

例えば姜維(キョウイ)、鐘会(ショウカイ)、ケ艾(トウガイ)、羊コ(ヨウコ/コの漢字が表示されません)、杜預(トヨ)、陸抗(リクコウ)等々。

こういった人達を描くのも面白いのでは?と思います。

特に姜維なんて蜀降伏後も鐘会と反乱を起こして結局失敗し、妻子ともども殺されるという凄惨なくだりがあったりしますし…。

まあ、関羽(カンウ)や張飛(チョウヒ)の活躍に比べれば地味かも知れませんが…。




『三国志に学ぶビジネス戦略 ピンチをチャンスに変えた成功法』【インフォトップ出版3月新刊】

ラベル:三国志
posted by たか at 18:49| Comment(0) | 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。

お小遣い稼ぎ総合支援サービス 豚の貯金箱 ブログランキング【くつろぐ】