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2010年03月17日

最後の将軍徳川慶喜

徳川慶喜はご存じの通り徳川家最後の将軍です。

私はこの人、嫌いです。

佐幕派の私ですが、どうしても許せない所がこの人にはあります。

徳川家康の再来なんて言われてますが、そこまですごいかな?なんて思います。

将軍後見職の折は政治総裁職の松平春嶽と共に文久の改革と呼ばれる幕政改革を行い、京都守護職の設置や参勤交代の緩和等を行い、なかなかの政治手腕を見せています。

また、将軍職に就いた後も、朝廷との交渉等においても政治手腕を発揮し、勅許を得ずに兵庫開港を声明した慶喜を糾弾するはずだった薩摩・越前・土佐・宇和島の四侯会議を解散に追い込んだりしています。


が、この人の嫌いな所は…。

この人は自分の事しか考えていないような所がちらつきます。

天狗党の乱では自分を支持していた武田耕雲斎ら実家・水戸藩の家臣たちを切り捨てたり、大政奉還にしても当時の朝廷に行政能力がないと判断し、どうせ自分が主導で政治を行う事になるなんて考えている節があったり…。

なんか好感が持てないんですね。

最大のきらいな所は、この人、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が形勢不利になったと見るやまだ兵力を十分に保持しているにも関わらず、江戸へ逃げ帰ってるんですよね。

連れて行ったのは会津藩松平容保、桑名藩松平定敬と、なんとなんと、陣中に伴った愛人…。

しかも、前線で戦っている兵を置き去りにしてですよ!

こいつは人の命をなんだと思ってるんでしょうね。

大将のいない軍が崩壊するのは自明の理です。

逃げるのはいいし、恭順の姿勢を示すのもいい。

でもそれは兵をまとめて帰るべきなんです。

自分の為に戦っている兵をほったらかしにして逃げるなんて人としても武士としても言語道断です。

慶喜が取ったこの行動の為にどれだけ多くの人が死んだか…。

本当に最低の将軍で、最低の大将です。

本当に、大っ嫌いですね。

ちなみに、「慶喜」は「よしのぶ」、「けいき」、「よしひさ」と3つの読み方が残っているそうです。
(本人も色々と使っているそうです。)

本人はけいきと呼ばれる事を好んだそうですが…。

名前って何通りもあるものなんでしょうか?

ひとつじゃないのかな…。


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posted by たか at 01:37| Comment(8) | 幕末 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして、私はけっこう慶喜さん好きなんですが、以前は私も大の慶喜嫌いでした。

鳥羽伏見の戦いは確かに色々といわれてますが、では当時の主戦派は慶喜に対してどういう気持ちだったのか?

この時の幕府軍のは興奮のるつぼで「慶喜を切り捨ててでも戦う」とまでいわれたようです。

こういった状態で、果たして慶喜が停戦命令や撤退命令出しても従うだろうか?

慶喜は確かにリーダーとして責任があると思います、でも鳥羽伏見での興奮した家臣による大混乱、パニック状態の状況下、下手に止めようなら何されるか分からない、異常事態での出来事であったことは差し引いて考えるべきかと私は思います。
Posted by 毅 at 2010年03月18日 20:01
毅さん。

はじめまして。
私のブログに訪問頂きまして、誠にありがとうございます。

成程、確かに「慶喜を斬り捨ててでも戦う」と言っていた人はいるでしょうね。

停戦、撤退の命令を出して従うかどうか…。

下手に止めてもパニックになるから大将だけ逃げても良いという話ではないと思います。
(同情の余地はないですね。)

自身が江戸に帰りたいのであれば、愛人だけ連れて帰ればいい訳です。

会津、桑名の両藩主に戦の始末を任せて逃げる事も出来たんです。

ちゃんと戦の始末をつけて帰る方法はあったんです。

それをこの両藩主も連れて帰って…しかも、江戸に帰るやいなや容保を謹慎処分、登城禁止、遠く府外へ立ち去れなど、おかしな命令を出してます。

武田耕雲斎を切り捨てた時同様今度は容保を切り捨てた訳ですね。

大体、京都守護職にしても再三断る容保になんとかやらせた訳でしょ。
必要な時は使っていらなくなったら切るんですよね。

ちょっと話はずれましたが…。

完全に大将失格ですね。

大体、この人なら奥羽列藩同盟や会津戦争をやめさせる事が出来たはずなんですが、何もせず…。

この人の行動いかんによっては救えた命が本当に多くあるんですよ。

それを全て見殺しにした。

そういった所に自分の事しか考えていないという所が見えるんですよね。

いや、この人の政治手腕とかそういった部分は評価できる点もありますし、この人自体を否定しているのではなく、あくまで私はこの人が嫌いだという話です。
Posted by たか at 2010年03月18日 22:42
そうですか、嫌いという感情はどうしようもないですね。でも慶喜関連も調べてみると面白いですよ。

鳥羽伏見の戦いは色々言われてますが、慶喜も後のこと何も考えず逃げた訳でなく、関係者には終戦処理で残る者と連れてかえる者を指示してます。(河合重子著「謎とき徳川慶喜」より)


>大体、この人なら奥羽列藩同盟や会津戦争をやめさせる事が出来たはずなんですが、何もせず…。

この人の行動いかんによっては救えた命が本当に多くあるんですよ。


当時幕府内は戦いによって解決を図る者もいたし戦いを避けようとして奔走した者もいました。新政府、旧幕府、会津双方主戦派が居る以上戦争は起こると思います。戦争責任をすべて慶喜には出来ないと私は思います。




Posted by 毅 at 2010年03月19日 06:51
毅さん。
コメント、ありがとうございます。

>当時幕府内は戦いによって解決を図る者もいたし戦いを避けようとして奔走した者もいました。新政府、旧幕府、会津双方主戦派が居る以上戦争は起こると思います。戦争責任をすべて慶喜には出来ないと私は思います。

勿論、戦争責任を慶喜一人に押し付ける訳ではなく…この戦争は薩摩、長州等が強引に始めた戦争ですからね。

ただ、江戸城無血開城以降の戦争に関してはこの人が「薩長に降伏しろ」という令を出せば…恐らく、各藩の主戦派以外は従い、主戦派は粛清されるか、主戦派だけで戦争をする事になり、戦争をする人数が圧倒的に少なくなったと考えてます。

藩主が「降伏する」と言うとあの時代の佐幕派は慶喜に文句を言っても、我殿の決定には従うと思います。

どうしても従えない主戦派は、藩主を殺して藩論を主戦に統一しようと考える人はいなく、野に下って主戦派を糾合して戦争をするのでは?と考えています。

そうすると、そこで死ぬ人達も少なくできたのではないかと思ってます。
(実際は各藩にいた主戦派と戦いを避けようとして奔走した人のどちらも強制的に戦争する事になっている訳ですから…。)

ただ、もう一度、慶喜関連を読んでみるのもいいかもしれませんね。

紹介していただいた河合重子著「謎とき徳川慶喜」は見つけたら買って読んでみます。
Posted by たか at 2010年03月20日 03:12
無血開城後、果たして諸藩に命令出せたかどうか。

恭順というと何となく臆病、卑怯、保身とイメージを持つかも知れませんが、実際は実に複雑で無血開城後も色々苦労がありました。

幕府崩壊によって多くの職を失った徳川家臣団が生まれ徳川家としてはそれらの人々の生活の保障をたてなければならず。維新後、徳川家の新しい領地と決まった静岡でにはおびただしい徳川難民が移住し(約十万人と言われている)新たな新体制を作らなければ多くの家臣の死活問題とつながります。静岡が今のように茶畑が豊富になったのは徳川家臣団のリストラ対策で茶畑開拓を奨励した面もあります。

無血開城後は無事終了、戊辰戦争をただ傍観していただでなく、その後のおびただしい残務処理、徳川家臣団の行く末、恭順派も色々リスクを背負ってました。慶喜もその間けっして自由の身でなく、常に新政府の監視下に置かれ、政治的な行動も取れませんでした。

私は近年、維新後の旧幕臣を調べるのが好きですが一口に幕臣といっても様々なんです。

たかさんはちょっと信じられないでしょうが、維新後、慶喜家に使えた旧幕臣で堅田又八という方の息子は熊之丞といい京都見廻組隊士で鳥羽伏見の戦いで戦死してます。また同じく維新後慶喜に使えていた間宮魁という人物は遊撃隊士として箱館戦争まで戦っています。

その他、維新後の慶喜家の日記を見ると度々旧幕臣が挨拶に訪れたり、お土産等を慶喜に送っているのが分かります。
慶喜を恨んでいた幕臣も居たのは事実ですが、すべてがそうではない訳です。

ちなみに無血開城後具体的に徳川家がどういう状況でどうなったかのを調べるのであれば

「明治前期地方政治史研究 上」原口清著(塙書房)

がお薦めです。



Posted by 毅 at 2010年03月21日 18:49
毅さん。
コメント、ありがとうございます。

ちょっと話がこじれてきましたね。
整理しましょう。

まず、慶喜は幕臣から恨まれていたなんて思ってませんよ。
(恨んでいた人もいたでしょうが…。)

基本的に江戸の君臣関係は殿様が失態をおかしても恨まず、その側にいた人を恨んだり罰したりするものなんですよ。

また、恭順に対しては別に臆病、卑怯、保身なんて思ってないですよ。

元々慶喜は水戸出身じゃないですか。
水戸と言えば水戸学ですよ。
尊王の志が強い土地柄で、慶喜も尊王思想の一人ですので、恭順するのに何の不思議もありません。

謹慎処分で常に新政府の監視下にあったのも知っています。

見廻組隊士の父親が維新後に慶喜に仕えているのも別に不思議ではないですよ。

見廻組自体、慶喜の旗本(直属の家臣)の子弟で長男(嫡男)でない者の集まりなんで、見廻組隊士の父はすなわち慶喜の直属の家臣なんです。

維新後、殿様の元に戻って仕えるのは道理です。

また、函館戦争は幕臣、会津等の旧幕府方、新撰組、見廻組等々、薩長土肥政権を良しとしない人達の集まりなんで、そこに参加した旧幕臣が負けた後は慶喜の元に戻るのも別に不思議はありません。
(元の殿様の元に戻る訳ですからね。)

旧幕臣が慶喜の所に挨拶に訪れたり、お土産を送ったりしているのも普通だと思います。
(むしろ、そうしない人達の方がどうかしていると思いますよ。)

どうも、誤解があるような気がするのですが、私は慶喜が恭順したから嫌いという訳ではないのです。

総大将の仕事を最後までしっかりとしなかった所が嫌いなんです。
(その他は及第点以上ですよ。)

総大将は戦をけしかけるだけが仕事ではなく、自軍をできるだけ被害が少なく、安全に退却させる事も、れっきとした総大将の仕事なんです。

また、自軍(兵士以外の人も含む)の安全をできるだけ確保しながら降伏するというのも総大将の仕事なんです。

その部分において、徳川慶喜という人はどこか途中で投げてしまった感があります。

恐らく毅さんと私の思想の違いだとは思いますが、私は孫子を代表する兵法書が好きでよく読んでいます。

その為、人を評価するのはどうしても兵家としての目で見てしまう訳です。
(兵家と言っても戦争の事だけでなく、総大将のあり方、トップのあり方といった観点です。)

あの大阪城で、しっかりと自軍をまとめて江戸に帰り、その後江戸の無血開城、奥羽諸藩に対しても城を出て恭順すべしというふれを出し、旧幕府方諸藩全てを挙げて薩長土肥軍に降ったのであれば、私は諸手を上げてこの人を称賛しますが、現実はそうならなかったというか、そうしなかった。

総大将がいなくなった軍は烏合の衆となり間違いなく敗北します。
それも、悲惨な形で…。

そこが、私の中でこの人は結局わが身だけを考えた人なんだな。総大将(トップ)の器ではなかったんだな。
と思わせてしまう所なんです。

あの状態で前線の兵が慶喜の命令に従うかどうかではなく、総大将ならば従わせなければいけないのです。
(過去の歴史を振り返ってこれができない人は全て大きな敗北をしていますし、後世にもだめな大将として伝わっています。)

勿論、残務処理や静岡の新体制を整理して、自分の家臣を守ろうと努力した事に関しては認めますよ。
(こちらについては全く文句もないですし、むしろ褒めるべき事だと思ってます。)

お茶にしても、当時静岡茶として有名な静岡で、外国との交易も活発になってきた折、外国に出荷する需要も増えた静岡茶に目をつけて、茶畑を推奨するあたりも流石と言わせる所ですしね。

しかしながら、静岡の徳川難民よりもドンパチやっている戦場の兵士の方が死活問題なんですよね。

また、機会があったら「明治前期地方政治史研究 上」原口清著(塙書房)を読んでみます。

ありがとうございます。
Posted by たか at 2010年03月22日 02:39
ごめんなさい、私、ちょっとたかさんを誤解してましたね、慶喜というと本当に賛否両論で、私も色々な面で発言してきましたが、中にはちょっと慶喜を肯定的に見る発言をしたら私自身を批判された経験もあります。慶喜嫌いな人の中には「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」見たいな方もいますが

たかさんはけっして無意味にすべてを否定する方ではないことがよく分かりました。
返信も実に紳士的な対応で感心します。

>あの状態で前線の兵が慶喜の命令に従うかどうかではなく、総大将ならば従わせなければいけないのです。

もちろんそれはそうだと思います、私も慶喜も大将としてある程度の責任はあると思ってます。

ただ考慮しておかなけらばならないのは慶喜は歴代の将軍とは違う特殊な面で、将軍家茂までは吉宗系の権威と伝統が守られた将軍だったのに対し、慶喜は水戸の血筋で「権威と伝統」を重視する面々から嫌われていたこと

また、慶喜は将軍になって以後も江戸城に入ったこともなく京都側と江戸側で幕府内対立が起きており、慶喜はかなり朝廷とむすびついていたこともあって、幕府内でも良く思わない人も多かったこと

というように総大将として統率出来なかった背景には上記のような事情もあり、良くも悪くも慶喜体制の元で一致できなっかたことが幕府敗北の原因でしょう。

>静岡の徳川難民よりもドンパチやっている戦場の兵士の方が死活問題なんですよね。

徳川家も主戦派として脱走した兵士を追いかけ説得に当たらせていますし、戦争で生き残った兵士も甘い条件で静岡藩で引き取ってます。まったく戦場の兵士を見捨てた訳ではないです。
Posted by 毅 at 2010年03月22日 07:38
毅さん。
コメント、ありがとうございます。
理解していただけてよかったです。

>ちょっと慶喜を肯定的に見る発言をしたら私自身を批判された経験もあります。慶喜嫌いな人の中には「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」見たいな方もいますが

それは酷いですね。

慶喜は徳川の代々の将軍の中ではよくやった方だと思いますよ。

>ただ考慮しておかなけらばならないのは慶喜は歴代の将軍とは違う特殊な面で、将軍家茂までは吉宗系の権威と伝統が守られた将軍だったのに対し、慶喜は水戸の血筋で「権威と伝統」を重視する面々から嫌われていたこと

確かにその通りですね。

しかも、かなり難しい局面における将軍職ですからね。

>徳川家も主戦派として脱走した兵士を追いかけ説得に当たらせていますし、戦争で生き残った兵士も甘い条件で静岡藩で引き取ってます。まったく戦場の兵士を見捨てた訳ではないです。

成程、慶喜のいい所ですね。

私は大阪人(太閤秀吉の膝元)という事もあり、地域がら徳川に対してちょっと複雑な感情を持っている所と、私が佐幕派に肩入れするきっかけになった人物が会津の神保修理(彼は大阪城を退去した容保の罪を背負って容保の代わりに切腹させられてます。)だったこともあり、慶喜に対してちょっと曲がった見方をしている所があると思います。

そういう毛嫌いをせずにもうちょっと慶喜の事を勉強してみるのもいいですね。
Posted by たか at 2010年03月23日 16:04
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