すみません。
本日は曹操(ソウソウ)の嫉妬?について記載したいと思います。
このブログでも何度も書いてきましたが、世に三国志と呼ばれる物は二つあります。
まずは正史三国志。
こちらは中国にて正式な歴史と認められている書物で陳寿(チンジュ)という人が記載した物。
もうひとつは三国志演義(三国演義、三国通俗演義)といい、正史三国志を元にこの時代を描いた時代小説で中国四大奇書のひとつです。
著者については、一般的には羅貫中(ラカンチュウ)が記載したとされています。
(施耐庵/シタイアンという説もあるらしいです。)
ちなみに、日本で三国志と言えば一般的には三国志演義を指します。
(吉川三国志、横山三国志も三国志演義です。)
そんな中で、本日の記事「曹操の嫉妬?」については三国志演義を元にして記載します。
曹操は三国志演義の中でよく「劉備(リュウビ)には関羽(カンウ)、張飛(チョウヒ)という忠臣がいてうらやましい。」といったような記述があります。
しかし、曹操には「典韋(テンイ)」「許チョ(環境依存漢字の為ブログに表示されません。)」と言った無二の忠臣がいます。
勿論、夏侯惇(カコウトン)をはじめとする血縁関係も忠臣ぞろいですが…。
典韋は曹操のボディーガードでその最後は曹操を守って敵の矢を全身に矢を浴びてハリネズミのようになって死んだ男ですし、許チョは典韋の死んだ後に曹操のボディーガードとして活躍した男で、曹操が寝ているときは例え親族が訪ねてきても絶対に部屋に入れなかった程の忠節ぶり。
どっちも劉備に対する関羽、張飛に劣らず忠臣だと思うのですが…。
劉備をうらやましがる曹操は…やはり根っからの人材マニアだったんですね。
以前も記載しましたが、曹操という男は本当に多彩な能力を持っていた人ですが、普通そういう人は自分の才能を頼んで人の力を借りなかったり、全て自分でしてしまったりという人が多いです。
しかしながら曹操はそうせず、有能な人材を求め続けました。
彼は「求賢令」というものを何度か出しています。
これは賢人を求めるという事で、広く在野の士を募った条例で、家柄や品行が悪くても才能さえあれば用いるという内容です。
これは儒教社会の当時としてはセンセーショナルな事です。
儒教社会では、見た目とか品行、家柄と言った事がかなり重要視されてました。
当然、官途に就く(就職)為の最重要項目がそういった内容になります。
才能はその次なんですね。
現代に生きる我々からすれば信じられない事ですが、当時はそれが当たり前でした。
そこに「唯才是挙/ただ、才能のみを挙げよ」という方針を出したのは本当に当時としては異例の事です。
曹操という人は本当に才能を愛し、人材を愛したという良い例ですね。
だから曹操は関羽、張飛に囲まれている劉備に嫉妬をした訳ではなく、関羽、張飛という才能を自分の手元に置けないが故に、劉備に対して嫉妬をしていたんでしょうね。
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図書館で借りてきた本も「三国志演義」「三国志
のすべて」「三国志最強伝説」でした。
歴史は、趣味じゃないと言いましたが何事も勉強。
少しづつ勉強します。
失礼。
コメントを頂き、ありがとうございます。
凄いですね。三国志を借りてこられたんですね。
この話は多くの人が読んだ話ではあるんですが、正直言って、合わない人は合わないようです。
(私はどっぷりつかってしまいましたが…。)
ちなみに私は徐庶(ジョショ)という智将が好きです。
(あまり出てきませんが…。)
面白い話だと思いますのでゆっくりと読み進めて下さい。