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2010年04月09日

陳羣という能吏

陳羣(チングン)字は長文(チョウブン)。

彼は結構地味な存在です。

三国志をちょっと詳しく読まれた方は「曹丕(ソウヒ)の四友の一人で九品官人法を制定した人です。」と答えられるでしょうが…。

ちなみに九品官人法とは、当時採用官や地元の豪族の恣意性が強かった人材登用を、法律として再度整備してそうした余地が入り込まないようにする狙いをもって、同時にまもなく起こる後漢から魏への易姓革命に備え、後漢に仕える官僚を魏に再任用する際の人材のふるい分けを狙う制度であったと考えられているそうです。
(以上、Wikipediaより。)

この制度は隋代までの中国における人材登用の基本制度となったそうです。

と、彼の有名なエピソードを挙げるとこうなる訳ですが…。

ただ、このくだりは220年とか、226年辺りの事となります。

実は彼はもっと早くに登場しています。

それよりも30年ほど前に、曹操(ソウソウ)ではなく、劉備(リュウビ)に登用され、別駕となってます。

194年に劉備が徐州(ジョシュウ)刺史の陶謙(トウケン)が死んだ際に劉備が跡を継いで徐州を領有するのですが、その際に彼は「南に袁術(エンジュツ)、西から呂布(リョフ)が徐州を狙っているので危険」と言って反対しています。

劉備が呂布に敗れて領地を失うと野に下り、徐州で避難生活を送った後、呂布を滅ぼした曹操に仕える事になります。

彼は常に名誉と道義を重んじた人で、能臣郭嘉(カクカ)に対してもその品行の悪さを法に照らして罰しようとしたいわゆる信賞必罰の男だったようです。

とまあ、ばらばらと彼の事績を述べてきましたが、この男、実は若干日本に絡んでいるという説があります。

というのも、日本の事が文面に出てくる最古の物は魏志倭人伝(ギシワジンデン)ですが、これは正史三国志の中の魏志の中にある記述です。
(正式には、「三国志 魏書東夷伝倭人条」というそうです。)

倭国からの使者に対して皇帝曹叡(ソウエイ)はこれを歓び、女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与えたという事ですが、この使者が曹叡に謁見する為に労を取ったのが司馬懿(シバイ)じゃないかと一部では言われてます。

司馬懿というのは諸葛亮(ショカツリョウ)のライバルとして登場しますが、この人も曹丕の四友の一人です。

当時陳羣の功績が大きく、そこに焦りを感じていた司馬懿に倭国からの使者が来たという情報が入ります。

この使者は貢物をもっているので、司馬懿が皇帝に謁見させれば、司馬懿の功績になります。

そんな状況もあり、陳羣への対抗意識から、司馬懿が倭国を必要以上の大国と皇帝に吹き込み、謁見させたという説を読んだ事がありますが…。

それはないです。

倭国の使者が来たのが239年。

陳羣が亡くなったとされる年は235年説と238年説があるようです。

どちらにしても、陳羣は死んでいます。

司馬懿も死んだ男に対抗する訳がないですよね。

という事で、結局陳羣は倭国には絡んでいませんでした。

ちゃんちゃん。




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posted by たか at 02:35| Comment(0) | 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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