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2010年04月30日

光秀と天海

明智光秀は本能寺の変で有名な信長殺しの主犯ですね。

ずいぶん昔から、明智光秀は天海だという説が流布してますね。

ちなみに天海とは、晩年の家康陣営に突如ブレーンとして現れた天台宗の僧、南光坊天海の事です。

彼は家康の神号(東照大権現)と決めたり、日光東照宮の建立に携わったり、3大将軍家光の頃には江戸の都市計画にも加わった人です。

光秀が天海という理由としては、本能寺の変後に突如家康の側近として天海が登場する事、日光に明智平と呼ばれる区画がある事、光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以降に比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っている事、光秀の家老、斎藤利三の娘が徳川家光の乳母(春日野局)になっている事他、色々と理由が取りざたされています。

また、筆跡も似ているそうで…。

こうなるとあやしい気分になってきますね。

光秀は秀吉に敗れた後、居城の坂本を目指して落ちのびる途中に小栗栖で落ち武者狩りにあって落命したと伝わってます。

また、秀吉の前に首実検として出された首級は腐敗が激しかった等とも言われてます。

なかなかあやしげな最後ですよね。

でもどうなんでしょうか…。

光秀って天海なんですかね?

Wikipediaを調べてみるともし光秀が天海だった場合、116歳で死んだ事になるそうです。

これに対し、天海が死んだのは108歳という事になっていて会わないそうですが…。

私的には、それ以前に明智光秀の産まれた年って正確にわかっていなかったと思っているのですが…。
(諸説ある為)

116歳と決定できるレベルのものではないと思うのですが…。

まあ、何にせよ当時の平均年齢からいったら倍くらいの長生きになりますね。

ちょっとあり得ない気もします。

天海がいきなり家康の側近になったのは確かにあやしいですが…。

もし天海が光秀ならば、本能寺の変の黒幕は家康ですね。

でなければ、光秀を厚遇する理由がない。

もし、本能寺の変で家康が黒幕でなければ、光秀を雇った家康は秀吉が家康を攻める為の絶好の口実を作ることになりますしね。

小牧、長久手の戦いで秀吉は家康に敗れたと言っても、その当時と天下統一後の秀吉では動かせる兵力が違います。

当時の家康は、秀吉に睨まれたら確実に攻め滅ぼされる立場に会った訳です。

そんな危ない橋を渡る男ではないです。

そういった辺りから考えるとやっぱり、天海は光秀ではないのでは?と思います。

天海が名付けた明智平、比叡山に残る光秀死後に光秀の名前で寄進された石碑等、あやしい要素はありますが…。

光秀=天海ではないにせよ、天海は光秀に同情的だったか、光秀に関係していた人なんでしょうね。

明智平と名付けたのは光秀をしのぶ為で、光秀の名前で比叡山に寄進した石碑は、光秀が信長の命令で焼き討ちにした比叡山に対し、どこか気にかけていて日ごろから何かしたいという事を漏らしていたかもしれない。

その事を覚えていた生き残りの家臣か、縁者が光秀の名前で寄進したのかもしれない。

いずれにせよ、天海は光秀ではないと考えています。
posted by たか at 02:45| Comment(0) | 戦国時代(日本) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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