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2010年12月15日

三国志 蜀の功績ランキング

三国志って多くの人が活躍しますが…。

じゃあ実際にその査定はどうなんだろうと思う時があります。

その功績は正史の三国志と三国志演義ではまた違うのかも知れませんが…。

雑多に多くの三国志関連の本を読んできて感じるその功績を私なりに記載したいと考えております。

第一回は蜀の武将について。

第一位 諸葛亮孔明(ショカツリョウコウメイ)

これについては恐らく誰もが納得する所と考えております。

評価のポイントとしては、やはり流浪の劉備(リュウビ)に明確なビジョンを与えた事ですね。

また、三国志の最大の山場ではありますが、赤壁の戦い(レッドクリフで有名ですね)において呉との連合を果たした事ですね。

風を呼んだり、10万本の矢を用意したりというのはフィクションなので、評価対象から外します。

また、劉備亡きあとも蜀を一身に背負い内政から外交、戦争までを一手に引き受け、過労死に至った経緯を考えても、この人が1位でしょう。


第二位 趙雲子龍(チョウウンシリュウ)

この人の功績で一番なのはやはり長坂の一騎駆けでしょう。

曹操(ソウソウ)の大軍の中を駆けまわり劉禅(リュウゼン)と甘夫人(カンフジン)を保護したくだりは三国志の中の名シーンの一つですね。

漢中攻めの際に黄忠(コウチュウ)の救出及び見事な撤退戦はこの人ならでは。

夷陵の戦い(イリョウノタタカイ)では関羽を殺されて見境が効かない劉備に対して諌めた辺りもこの人の功績ですね。

何より、活躍が長かったのもこの人の功績と言えます。


第三位 関羽雲長(カンウウンチョウ)

劉備挙兵依頼の股肱の臣の一人で、蜀攻略以前は劉備の戦の殆どに参加した猛将ですね。

劉備の戦は負けが殆どですが、この人がいなければさらに酷い負けを喫していたでしょうね。

ただ、残念なのは…。

華雄(カユウ)を斬ったのは三国志演義のフィクションで実は孫堅(ソンケン)が斬っていたり、顔良(ガンリョウ)、文醜(ブンシュウ)を斬った(正史では顔良のみ)のは曹操幕下の折で蜀における功績では無い所ですね。


第四位 張飛益徳(チョウヒエキトク)

この人も劉備挙兵依頼の股肱の臣。

関羽と共に多くの戦に加わりましたが…この人の場合失敗も多かった。

三国志の中ではその豪勇は屈指の物ですが、いかんせん、おつむが弱かった為、失敗も数々あります。

一番の功績は長坂での仁王立ちですね。

一喝で曹操軍を退けた辺りは流石と言わざるを得ません。

ちなみに三国志演義では張飛翼徳(チョウヒヨクトク)となっています。

何故著者が名前をかえたのかはわかりませんが…。


第五位 馬超孟起(バチョウモウキ)

ちょっと意外に思われる方もおられるでしょうが…。

それもそのはずで、この人、君主として君臨していたころは数々の武勇がありますが、劉備配下になってからは殆ど功績がありません。

彼の蜀における唯一といってもいい功績は劉章(リュウショウ)を降伏させた事ですね。

これは大きいですよ。

劉章は馬超が劉備に帰順した事を知って、降伏に踏み切った訳ですね。

これが長引いていれば、蜀は無かったかもしれませんしね。


以上がざっとした所です。

勿論、夏候淵(カコウエン)を斬った黄忠や、かなり長い活躍をした廖化(リョウカ)、外交官での功績や蜀科の作成にも尽力した伊籍(イセキ)等も候補として考えたんですが、やっぱり上記の辺りが妥当と思います。

でも、我ながら…。

結構普通な人選ですね。

posted by たか at 18:25| Comment(16) | 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月09日

三国志 曹操と荀ケのつながり

三国志での名コンビのひとつとして、曹操(ソウソウ)と荀ケ(ジュンイク)があげられますね。

ただ、荀ケの死に方から、この二人に関してはさまざまな事が言われています。

大宦官の家系から生まれた曹操に対し、当時の清流派知識人筆頭ともいえる荀ケが完全に心服していたはずがないといったような扱いもちらほらと目にします。

確かに、当時の状況では、清流派知識人の筆頭として荀ケを出した荀氏があげられます。

荀ケの叔父に当たる荀爽(ジュンソウ)は無位無官から90日で司空にまで上った人物ですしね。

まあ、これは当時宦官に虐げられていた清流派知識人に目を付けた董卓(トウタク)が自身の政権のイメージアップの為に清流派知識人をどんどん登用したことが理由ですが…。

要は、荀ケは清流派知識人の筆頭格として、曹操を利用して漢王室の再興を考えていたというのが、結構定説的に扱われています。

しかしながら、曹操を主君に選んだのは荀ケなんですよね。

当時袁紹(エンショウ)幕下にいた荀ケは、袁紹が大事を成す男ではない事を見切り、曹操の元に走った訳ですよ。

その当時の袁紹勢力と曹操勢力は、圧倒的に袁紹が大勢力でしたよね。

しかも、曹操は袁紹派閥とみられていた時期です。

そんなときに曹操の元に荀ケが走った訳ですから、これは凄いことですよ。

単純に曹操を利用して漢王朝を再興しようなんて理由で、そんな博打に出るはずがありません。

やっぱり荀ケから見た曹操は、かなり魅力的な男だったということですよね。

その後はことごとく荀ケの方策が当たり、曹操が最大の勢力になることになるのですが…。

曹操は宦官の家系ということで、清流派から当初は敬遠される人物だったんでしょうね。

そこに清流派知識人筆頭格の荀ケが飛び込んだ訳ですから、曹操は清流派の人々からも一目おかれる存在になる訳ですよね。

曹操にしてみれば、荀ケのおかげで、かなりの清流派を幕下に従える事ができるようになった訳です。

そんな清流派知識人筆頭格の荀ケ…。

曹操と荀ケの関係を語られる上であまり論じられないんですが…。

荀ケの妻も宦官の家系から出ているんですよね。

荀ケは、当時中常侍という宦官の総元締めの役職について権威を振るっていた唐衡(トウコウ)の娘を娶っているんです。

恐らく、いかに荀氏とはいえ、大宦官の家から持ちかけられた縁談を父の荀コン(ジュンコン/コンは糸偏に昆)が断れなかったという所なんでしょうね。

もし断ったら、下手をすると荀氏一族が皆殺しという事もあり得ますしね。

しかしながら、この事が荀ケの目を開眼させたと考えられます。

要は、一般的な清流派の人々は濁流中の濁流である宦官の家系を忌み嫌っている為、曹操に仕えるという発想がわかないですが、荀ケには「宦官の所業と宦官の出自は異なる」という明確な認識が存在していたんでしょうね。

そこが一般の清流派と荀ケが違う所ですね。

そんな荀ケですので、「宦官の出自である曹操に心服する訳がない」という説は当てはまらないと考えております。

曹操と荀ケというのは、本当に表裏一体の名コンビだったと考えています。

なお、荀ケの死についての私なりの考えは以前このブログで記載しました。

ご興味のある方は2009年10月14日に「荀ケは自殺?」という記事を記載しておりますので、このブログの右側の「タググランド」から「三国志」を選択していただければ、記事を容易に検索することができます。

posted by たか at 02:20| Comment(0) | 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月11日

于禁の投降

先日来、陳瞬臣氏の「曹操(ソウソウ)」を読んでますが…。

昔読んだ本なんですが、案外覚えてないもんですね。

陳瞬臣氏は三国志関連の小説を色々と書かれてますが、この人の特徴は独自の解釈に基づいて記載している事が多いので、基本を押さえた(吉川英治氏の三国志とか…)人が読むと、なかなか刺激があり、面白い本です。

今丁度于禁(ウキン)の投降の場面なんですが…。

于禁、字は文則(ブンソク)。

三国志演義や吉川三国志、もしくはゲーム等から三国志を知る事になった人は「えっ于禁?あの楽進(ガクシン)とコンビの二流のわき役でしょ?」なんて思うかも知れませんが…。

于禁は必要以上に悪役であったり、弱い将軍として記載されています。

しかしながら、実際にはこの男、曹操の主要な戦には殆ど参加して武功をあげています。
(勿論、楽進もそう。楽進も曹操の主要な戦には参加し、武功をあげています。)

魏で名将といえばぱっと浮かぶのは張遼(チョウリョウ)でしょうか、張ゴウ(字が出ない)でしょうか、もしくは夏侯惇(カコウトン)、夏侯淵(カコウエン)、曹仁(ソウジン)、徐晃(ジョコウ)あたりでしょうか…。

勿論、みんな名将ですが、三国志演義や吉川三国志のみを読まれた方からすると、関羽(カンウ)、張飛(チョウヒ)、趙雲(チョウウン)等に比べると数段落ちる将軍と思われがちです。

そうなんです。

三国志演義は曹操を悪者として書いてますんで、曹操陣営の将軍はあまり良くは記載されません。
(例外は張遼でしょうか…。)

みんな名将なんです。

どちらかというと、関羽や張飛の方が個人の武に頼りすぎで全体的な指揮という点で言うと、超一流かと言えばちょっと疑問がのこります。

当時の魏軍で言えば于禁は張遼、張ゴウ、楽進、徐晃と言った面々と共に名将と謳われています。

元々鮑信(ホウシン)の部下として登場します。

鮑信が戦死した後、曹操の配下になります。

最初は陪臣だったんですが、「優に大将軍とするに足る」として推挙されます。

そこから、彼の抜群の活躍が始まるのですが…。

この人の最後は関羽が襄陽(ジョウヨウ)に攻め込んだ際に于禁は援軍として駆けつけますが、漢水の氾濫の為、于禁はホウ徳(ホウの字は表示されない為カタカナにします)と共に関羽に捕らわれます。

勿論、于禁が率いてきた3万の兵と共に。

ホウ徳は曹操への忠義を貫いて打ち首となりますが、于禁は関羽に降伏して助命されます。

その際曹操は悲しみと嘆息を込めて「わしが于禁を知って30年になるが、危機を前にし、困難にあってホウ徳に及ばなかったとは思いもよらなかった」と言ったそうです。

その後、関羽は孫権(ソンケン)に攻められ打ち首になり、于禁も孫権に捕らえられ賓客としてもてなされます。

曹操が死に、曹丕(ソウヒ)が禅譲を受けて皇帝となると、孫権は魏に従い、于禁を送り返します。

曹丕が于禁を引見したとき、于禁は鬚も髪も真っ白で、顔はげっそりとやつれていました。

曹丕は于禁を表向き慰め、安遠将軍に任命し、呉への使者に任命するとして、高陵(曹操の墓)を参拝させました。

が、

曹丕はあらかじめ、関羽が戦いに勝ち、龐徳が憤怒して降服を拒み、于禁が降服したありさまを絵に描かせておき、于禁はこれを見ると面目なさと腹立ちのため病に倒れ、死去しました。

北宋の司馬光(シバコウ)は「資治通鑑」で「文帝(曹丕)は于禁を罷免する事も、殺す事も出来たのに陵屋に于禁が降伏した有様を描かせてこれを辱めた。君主のやる事ではない」と言って批判してます。
(ちなみに、ホウ徳は曹操の配下になって約4年)

あれだけ活躍したのに最後でミソをつけてしまった形になりましたが…。

ただ、于禁ってそんなにすぐに降伏する男ではないと思うんですが…。
(勝手な私の思いこみかもしれませんが…)

ここで、陳瞬臣氏はこの于禁の投降を「関羽に投降することによって食糧の負担を大きくした」という観点から記載されています。
(かなりな慧眼だと思います。)

要は、于禁が3万の兵と共に降る事により、関羽軍の兵糧が足りなくなるんですね。

実際、于禁が投降した後、関羽は官庫(多くの米が備蓄されている倉庫)を襲って兵糧を得ます。

おおざっぱな関羽は「また後で返す」と軽く考えているようでしたが…。

この行動が孫権が関羽討伐に踏み切る一因になるんですよね。

となると、于禁の投降って、彼の深謀遠慮と言えなくもないですよね。

結局、ここでの関羽の敗死が諸葛亮(ショカツリョウ)の天下三分の計を狂わせ、蜀(ショク)の飛躍の芽を刈り取った事になりますからね。

曹操は「わしが于禁を知って30年になるが、危機を前にし、困難にあってホウ徳に及ばなかったとは思いもよらなかった」と言ってますが、逆に于禁を曹操が理解していなかった…。

なんて事も考えられますよね。

于禁ってかなりの活躍をした人なのに三国志演義では悪く書かれ、正史でもみじめな死に方をして(死に方は三国志演義もほぼ同じですが、三国志演義では于禁に命乞いをさせてます。)、本当に浮かばれない武将ですね。



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posted by たか at 02:58| Comment(1) | 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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