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2010年08月26日

黄巾の乱 経緯

先日、ブログのデザインを「レッドクリフ」に変更しました。

別に心境の変化があった訳ではなく…。

ただ単に、前のデザインでは本文が読みにくいのでは?とずっと思ってました。

せっかく、私のブログに訪問頂いた方に字が読みにくいデザインでは申し訳ないという思いがずっとありましたので、今回変更させていただきました。

私はこの2〜3カ月は龍馬伝の感想しか書いてませんでしたので、せっかく三国志モノのデザインに変更しましたので、ここで三国志ネタを一つ。

このデザインから行くと赤壁の戦いについて記載するのがいいのかも知れませんが、こちらは色々と思う事はあるのですが、まとまっていないので、黄巾の乱にしようと思います。
(三国志の初めですしね。)

私は今年の5月8日にも黄巾の乱というタイトルでブログを書いてますが、黄巾の乱と言いながら結局張角(チョウカク)の事しか書いてないなと思い、再度記載しようと思います。


この頃の漢の皇帝は霊帝と謚(オクリナ)される皇帝です。

字を見てお察しの通り、「霊」という字が用いられているという事は、暗愚な皇帝だったという事です。

中国の皇帝はみなちゃんとした指名を持ってますが、死後に謚を送られます。

その謚には決まりがあって一番優れた皇帝を「文」とします。
(文帝とか聞いた事があるかと思いますが…)

その次を「武」とするといった形で、死後にその皇帝の評価がされる訳ですね。

「霊」というのは下の方に属しますので、やはり暗愚だった訳です。

例えば売官制度。

この皇帝が即位した頃の漢王朝の国庫は貧しかったそうです。

その為、この人はお金儲けに執着したようですね。

官職を売りに出しました。

その代金で国庫を潤そうとしたようです。

勿論、大枚はたいて官職を買った人は任地で重税を課して元を取ろうとします。

その為、農民が苦しい思いをし、耕す事を止めて流浪する人達が多く出てきました。

そんな人達を集めたのが黄巾党ですね。

太平道という宗教を起こし、そこの信者として取り入れて言った訳です。

信者が増えるにつれ、張角は信者を三十六の編成して、政権の中枢にいた宦官(カンガン)等も信者にして、一斉蜂起によるクーデターを起こそうとしたんですね。

勿論、秘密にしていたのですが、ばれてしまいます。
(まあ、組織が大掛かりですからね。)

そこで洛陽の工作を担当していた馬元義(バゲンギ)が捕まって車裂きの刑で処刑された事により決起が早まって、官軍に鎮圧されるのはご存じの通り。

しかしながら、この決起が起こる7年前にすでに太平道の対策を上書した人がいました。

楊賜(ヨウシ)という人です。

この人は司徒という当時の朝廷で最高ランクの職の一つについてました。

「張角は百姓をたぶらかしてけしからぬ者ではあるが、州郡に命じて捕討すればかえってよけいまずい事になるおそれがある。そこで州の刺史に命じて信者を取り調べ、その戸籍に護送し、その党を孤立、弱体化させた後に渠帥(キョスイ/頭目)を誅殺すれば労せずして平定できる。」

と言いましたが、勿論暗愚な霊帝。

不愉快な報告を聞くのがいやで、そういう報告をした者はしばしば解任されてます。

ご多分にもれず楊賜も解任されました。

この暗愚な皇帝は黄巾党が決起するまで、正確な情報を持ってなかったんです。
(まあ、決起した後まで、正確な情報を持ってませんでしたが…。)

いわば、黄巾の乱というのは漢の霊帝が招いてしまったものなんですね。

ちなみに楊賜という人は後に曹操(ソウソウ)の配下で不遇な死を遂げる楊修(ヨウシュウ)のおじいさんですね。

トップがダメなら下が不幸になるという一例ですね。



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ラベル:三国志 黄巾の乱
posted by たか at 03:07| Comment(0) | 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月19日

空城の計

三国志の名場面の一つとして「空城の計」があります。

昔から芝居などでもしばしば上演されたりもしています。

諸葛亮(ショカツリョウ)の施した計略の中でも有名なものですね。

経緯としては…

第一次北伐の際、先発の司令官に抜擢した馬謖(バショク)が大敗したので、孔明は全軍に撤退命令を出すのですが、そこへ司馬懿仲達(シバイチュウタツ)の率いる15万の大軍が攻めよせてきました。

対する孔明は西城という小さな城で撤退の指揮をとっていましたが、主力は全て前線に出払っていた為、城内には弱卒ばかりの2500の兵のみという状況。

早馬がひっきりなしに司馬懿軍の接近を知らせ、浮足立った城内の将兵は「すぐさま撤退を!」と口々に進言しますが、孔明は「待て待て。わしにいい考えがある。いまさら逃げた所で、すぐに捕まってしまう。ここはわしに任せておけ。」と言います。

孔明の指示は、全ての将兵を物陰に潜ませた上、全ての城門を開け放ち、城内には人がいないように見せかけます。

また、20人程の兵に農民の身なりをさせて、城門の辺りを箒で掃いているよう命じました。

孔明自身は、道士の服に着替え、少年二人を連れ城楼に上がり、香を焚き琴を奏で始めました。

一方、仲達の元には物見から報告を受けると自分の目で確かめると言って前線に出て自分の目で確かめると、物見の言った通りだった為、「孔明は元々用心深い男。危険をおかすような男ではない。これには何か計略があるに違いない。迂闊に攻め込んだらとんでもない事になる。」と言って、全軍を撤退させました。

城内の兵は中立つ軍が引いていくのを見て改めて孔明の智謀に感嘆したという話なんですが…。

初めてこのくだりを読んだ時、私の中では、かなり?マークでした。

というのも、小城に15万の兵で攻め込んで、城門が全て開かれ、おかしな状況だったとしても、撤退するんだろうか?という疑問が浮かびました。

兵法に照らし合わせて考えると、ここで司馬懿軍が取る戦略は包囲ですよね。

何故撤退する必要があるんだろう?という疑問が浮かびました。

司馬懿が背後を取られる心配をしたのであれば、おかしいですよね。

撤退する蜀軍を追ってきた訳ですから。

そこに孔明がいて、15万の大軍を率いていて「なんで撤退なん?」というのが正直な私の感想でした。

しかしながら、この疑問はすぐに解けました。

要はフィクションだったんですね。

悪い言い方をすれば、ウソ。

このエピソードは三国志演義のみに出てくる話で、孔明を天才軍師にしたてる為に造られた話でした。

気持ちはわかりますが…。

造るのであれば、もっとつじつまを合わせて造るべきとおもう今日この頃です。
(司馬懿が可哀そうですね。)




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posted by たか at 16:18| Comment(1) | 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月13日

三国一の色男、周瑜公瑾

周瑜公瑾(シュウユコウキン/公瑾は字)は呉の国建国の功臣です。

三国志演義では諸葛亮(ショカツリョウ)の引き立て役にされ、不当な評価を後世に残した可哀そうな智将です。

正史三国志においては、あまり人の見かけを記載していないのですが、この男に関しては特に「美周郎」と呼ばれたと記載があります。

かなり外見が美しい男だったんでしょうね。

主君である孫策(ソンサク)とは義兄弟ですね。

というのも、孫策の妻と周瑜の妻が姉妹ですから…。

映画「レッドクリフ」では主役でした。

三国志演義においては、本当に不当に陥れられています。

赤壁の戦いにおける彼は、無残にも諸葛亮の引き立て役にさせられてますね。

諸葛亮の才能をねたみ、諸葛亮をなんとか殺そうとしてそのすべてを諸葛亮に見切られ、逆に全て返されています。

諸葛亮を危険視したのかも知れませんが、そんな男ではないと思いますが…。

正史においては、「寛大な性格で、人の心をつかむのが旨かった」と記載されています。

呉の宿将である程普(テイフ)は、周瑜が若輩者であるにも関わらず、自分と同等の地位にいる事に反感を持ち、周瑜とは折り合いが悪く度々周瑜を侮辱していたようですが、周瑜はそんな程普にたいしてあくまで膝を屈して謙譲の姿勢で接した為、程普も感服し、周瑜を尊重するようになったというエピソードも正史に見られます。

そんな周瑜は三国志演義において傲慢で、短慮で、諸葛亮の才を妬むという形で記載されています。

これはひどすぎますよね。

程普に対する姿から見ても、周瑜という男はそんな傲慢でもなく、短慮でもなく、本当に自身を慎む男だった事が分かります。

以前、魯粛(ロシュク)について記載(2010年3月11日「魯粛は伊達じゃない!)しましたが、三国志演義というのは時に人の能力や人格を曲げてまで、諸葛亮を引き立てるように記載されてます。

曹操なんかも、かなり曲げて記載されてますね。

三国志演義の作者は作家としてはかなり優秀ですが、あまりにも人物を曲げて記載している事が多いですね。

その為、無駄に恨みを買ったり、バカにされてきた武将の何と多い事か…。

周瑜という男は程普が言ったとされる次の言葉で全てが表されていると思います。

「周瑜は上等な酒のような人物。知らぬ間に酔わされてしまう。」

なかなか奥ゆかしい男だったようですね。

また、そんな彼は音楽にも精通してました。

正史にあるエピソードですが、宴会で酒に酔っていても、演奏者(当時の宴会の場は、人が曲を演奏している中で酒を飲んでいました。)が僅かでも間違えば、周瑜は気づいたそうです。

その為当時の人々は「曲に誤りあれば周郎が振り向く」という歌を造ったそうです。

なかなかの風流人ですね。

戦においては鬼謀を発揮する智将、人との付き合いでは寛大で慎み深く、音楽に精通した風流人、そしてさらにかなりのイケメン。

何とも文句のつけようのない男ですね。

この人は36歳という若さで死にましたが、もっと長生きしていれば、歴史はかなり変わっていたと思わせる人物ですね。




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posted by たか at 00:45| Comment(2) | 三国志 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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