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2010年02月04日

戦は時代によっても変わる

今回はちょっと違う観点から戦について書きたいと思います。

昔の日本における戦の編成は大体中国に影響を受けています。

そんな部隊編成等では当たり前に出てくる騎馬隊ですが、太古の中国には騎馬隊は存在しませんでした。

どういう機動隊を出していたかというと、それは戦車です。
(戦車って言ってもティーガーとかレオパルドとかではないですよ。)

馬に車を引かせるのですが、その車に乗るのは将軍(もしくは君主)と馬を操る御者、将を守る勇者という3人編成のものです。

ただ、太古の中国に存在しないと言ってましたが、異民族と呼ばれた遊牧民族等は純粋に騎馬隊を持ってました。

戦車はやはり平地でなければ展開しづらく、戦う場所を選ぶのに対し、騎馬隊は戦える場所は平地に限りません。

どう考えても戦車よりも騎馬隊の方が有利なんですが、それを導入しなかったのは訳があります。

当時中国の大夫(要は偉いさん方)は裾が長く、株がスカート状の服を着ていて、乗馬の為には、これは邪魔です。

遊牧民は乗馬に適したズボン式の服装(胡服)を着ていたので馬に乗る事が出来たのですが、当時の中国の大夫達はその服装を卑しい人の服としてさげすんでいたので、着る事はありませんでした。
(要はプライドが邪魔をしていたんですね)

そんな状況を打破する人が現れます。
(どんな時代にもプライドとか外見よりも実を取る人はいるもんだ。)

紀元前307年に趙という国に武霊王(ブレイオウ)が「胡服騎射」と言って要は胡服(ズボンのような服)を着て馬に乗って弓を射るという事を取り入れます。
(最初は反発がありましたが、粘り強く説得を続けて導入にこぎつけます)

出来上がった騎馬隊を用いて快進撃を遂げる武霊王を見て、他の君主達も取り入れていった結果、戦車隊は無くなり、騎馬隊が残った訳です。

また、時代は変わりますが、屯田兵という制度があり、これを成功させたのは三国志の曹操(ソウソウ)ですが、民屯と軍屯に分かれます。

この民屯は農民に土地をあてがい、耕せるという制度で、軍屯とは戦争をしている際にその駐屯地で兵を使って田を耕すというものです。

これで曹操はかなりの成果を挙げました。
(やはり遠征していると兵糧が不安になりますが、その土地で耕し収穫すれば良い訳ですからね。)

しかしながら、日本の戦国時代、織田信長は兵士と農民を分ける事で成果を出しました。
(兵農分離)

日本の戦国時代の戦は秋の収穫時になると兵が刈入れを行う為に国に帰らないといけなく、その為、そこで戦が打ち切りになるんですが、信長の兵農分離で兵は収穫をしなくて良くなった為、いつまでも戦場にいる事が出来るという事で成果を挙げました。

まあ、中国では人が多いので兵隊は専業だったので軍屯が有効だった訳ですが…。

兵に耕させる事で成果を挙げた曹操、兵に耕させない事で成果を挙げた信長。

時代と条件が変われば取る策も変わり、逆の動きもまた効果的になるという事なんですね。

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posted by たか at 01:24| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月21日

歴史という授業

歴史って「嫌い!」という人が多いですよね。

まあ、近年の歴女ブームで少し見直されているようですが…。

歴史って本当は面白い物だと思います。

例えば日本の歴史で行くと、今の日本を創ってきた過程がそこにありますよね。

多くの人が精いっぱい生きた軌跡がそこにはあるんです。

でも、嫌いっていう人が多いのは歴史の授業が悪いんですね。

私も普通に学校で歴史を学びましたが、確かに学校で習う歴史は面白くありませんでした。

最近の歴史の授業は違うのかも知れませんが、とりあえず暗記モノの授業ですよね。

当然、暗記は繰り返さないとできない訳で、そうなると努力が必要な訳で、そうなると好きになれない訳で…。

わかります。

でも本当の歴史の面白さって点じゃないんですよね。
(暗記は点ですよね。)

例えば「桜田門外の変」という事件を例にとりましょう。

この事件は現役の大老が暗殺されるという、今で言うと総理大臣が暗殺されたような衝撃的な事件です。

これを授業で習うとペリーが来航し、幕府に開国を迫られ井伊直弼は朝廷の勅許を得ず、独断で条約を結んだ事に対して怒った攘夷派が暗殺した。

年代は1860年です。

という感じで終わります。

そんなの面白くないですよね。

桜田門外の変っていうのはそんな簡単な事ではないです。

まず、当時の幕府というのは徳川家が主催していた訳ですが、この徳川家には御三家という物が存在します。

尾張、水戸、紀伊という3つの徳川家が江戸の補佐という事で存在している訳です。

例えば、将軍の世継ぎが絶えた時、その御三家から世継ぎを迎えるとかいった機能も果たしてます。

桜田門外で井伊直弼を斬ったのはその御三家のひとつ、水戸藩の脱藩浪士なんですね。

それだけでも、「なんで?」なんて思うじゃないですか。

江戸の将軍家を支えるはずの水戸藩から幕府の大老を暗殺した者が出たというだけでも大スキャンダルですよね。

要はペリーが来航した1853年以降日本国中は外国人に対してどういう対処を取るかという事で沸騰する訳です。

今まで鎖国をしてきた日本は西洋の列強国の中ではオランダとしか国交をひらいていない訳で、ペリーというアメリカから来た人が貿易をしようと言って来た問題をどう処理するのかという事が日本中の多くの所で議論されてきました。

結局、攘夷派と開国派に分かれる事になりますが、このペリー来航から桜田門外の変までの間に、日本中の塾で、様々な議論や信念が語られ、その殆どは攘夷となっていた訳です。

水戸藩では天狗党と言われる人達が結集し、攘夷に走るべし!という過激な集団になって行きました。

勿論、吉田松陰の松下村塾なんかも断じて攘夷!という塾でかなり過激な人達が日本中を往来することになって行きます。

何故過激かというと、攘夷というのは外国人を打ち払うという事で、外国人を斬るという事なんです。

しかしながら、幕府は開国を決定します。

そうなると、攘夷派の面々はより過激になり、外国人を斬る事に執念を燃やします。

そんな事態を重く見た幕府が過激な指導者等を一斉に検挙し、弾圧したのが「安政の大獄」です。

吉田松陰もここで死にます。

師を殺された人達は当然、幕府の処置を不当とし、より一層攘夷に走り、今度は倒幕を考えだします。

そういったエネルギーが噴出したのが桜田門外の変という訳ですね。

歴史は点では無く、線や面なんです。

ストーリーで理解していくと歴史というのは面白いものなんです。

私が学んだ歴史でテストに出た所というのは年代とか法律の名前とか人物の名前とかで、それらにつながりがないんですよね。

勿論、そう言った事は大事なんですが、それよりももっと大事なのは、事件ならそこに至るまでの経緯、法律ならばそれが必要になった背景、人物ならその人の思考パターンや取った行動というのは、どうしてそうなったのかという所が面白い訳です。

明智光秀は何故織田信長を殺したのか、坂本龍馬は何故殺されなければいけなかったのか、誰が坂本龍馬を殺したのか、その黒幕は…。

どんどん、歴史の面白い所にはまっていく訳です。

歴史は絶対に背景や流れが重要だと思いますし、そういった所が授業で本当にできれば、テストでそういう問題を取り扱えれば、歴史というのは難しいものでも、つまらないものでもなく、むしろ面白いものです。
posted by たか at 00:22| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月20日

三国志を例にした軍師分類

一般的に軍師と言うと、戦争における参謀を想像されると思いますが、一言で軍師と言っても色々な種類の軍師がいます。

例えば、荀ケ(ジュンイク)と郭嘉(カクカ)はどちらも軍師ですが、その役割は違いますよね。

荀ケという人物はほぼ、戦争に従軍していません。

彼がした主な仕事は国の方針を決める事、国の人材を豊富にする事など、戦略に関わる仕事をしています。

それに対し、郭嘉は戦争に従軍し(特に呂布/リョフ 討伐戦、烏丸/ウガン 討伐戦などは大活躍)的確な戦術で曹操(ソウソウ)軍を勝利に導いた軍師です。

三国志を読まれた方は多数おられると思いますが、この荀ケと郭嘉について、「どちらが優れた軍師でしょう?」という質問をすると、多くの人が郭嘉を挙げると思われます。

荀ケは曹操軍において常に筆頭の軍師というポジションについてきました。

三国志を読んでいる人や、コーエーの三國志シリーズ等をプレイした人達は恐らく「俺なら郭嘉が筆頭軍師やな」と考えると思いますが…。

そこは、大きな間違いというか、ゲームでは軍師の価値は単なる知力の数字の為そういう現象が起こる訳ですが、軍師の役割からいえば、やはり筆頭軍師は郭嘉より荀ケなんです。

そもそも、軍師の役割とはどういった物があるかをタイプ別に述べたいと思います。

1.戦略型軍師

簡単にいえば戦略型軍師は国の大きな方針を作る軍師です。

戦略と戦術の違いは、戦略というのは方向性等となり、戦術はそれを具体化する物という事です。

ゲームを元に解説すると、例えば190年頃の曹操を取ったとします。

周りには袁紹、董卓、陶謙等がいます。

この時点で戦略は中華の統一となり、近々の戦略は州の制覇となります。
その為にどこから攻めるかという所位までが戦略です。

戦術は例えば董卓を攻めるとして、どの将を連れていくか、兵力をどれだけ持って行くかとか、攻め込んだ後、どういう配置にするか、各個撃破にするのか、わき目もふらず城攻めにするのか…といった辺りを考えるのが戦術です。

戦略と戦術というのは勿論連動している訳ですから、どこまでが戦略でどこからが戦術という明確な区別は無いですが、頭の巡らせ型としてはそういう事になります。

2.戦術型軍師

文字通り戦術に頭を働かせる軍師です。(詳細は上記)

3.宰相型軍師

これは内政方針を決め、国をどうやって富ませていくかという事を考える軍師です。
戦略型と兼ねる事例も多いです。
(荀ケはこれも兼任できますが、例えば陳羣/チングン)

4.官僚型軍師

この軍師は内政方針に沿って実務を効率よくこなす事を考える軍師です。
(例えば董昭/トウショウ、毛介/モウカイ等)

ざっと挙げると4タイプぐらいでしょうか…。

ちなみに、他にも軍配型軍師という者もいます。

こちらは、合戦になった場合、占い等をして、いつ、どの方向から出陣するか等々、非科学的な事をおこなう軍師で、三国志ではあまり見受けられません。(日本の戦国時代ではしばしばこういう例はみれますが…。)

こういった事から考えると、曹操軍でいうと戦略型と宰相型を兼ね備えたのが荀ケ、参謀型の軍師が郭嘉となります。

中国においては参謀型の軍師は重宝されましたが、それよりも戦略型軍師の方が重宝されました。
(戦略が無ければ、戦術は生きないですからね。)

水鏡先生が「伏龍、鳳雛のいずれかを手に入れれば天下は掌にあり」と言ったのも、人材は世の中に数多くいて、その殆どが参謀型であるのに対し、伏龍、鳳雛は戦略型の軍師であるという事が言いたかったのでしょう。

ちょっと、曹操からいきなり劉備(リュウビ)に飛びましたが、劉備軍で行くと、戦略型軍師は諸葛亮という人材を登用する事により、ようやく手に入れれましたが、参謀型軍師がいませんでした。(徐庶/ジョショ がその役に適任ですが、曹操の元へ行ってしまいましたしね。)

ここが、蜀という国が飛躍できなかった最初の原因ですね。
(勿論、直接的な原因は呉の討伐で多くの将、参謀が死んでしまった事。)

結局、参謀型軍師不在の為、本来なら戦略型として用いるべき諸葛亮(ショカツリョウ)やホウ統(ホウトウ/字がでない)を参謀型として用いた訳ですね。

勿論、諸葛亮よりもホウ統の方が戦術に長けてたんですが…。

そんな蜀も一時期、飛躍のきっかけを作る場面がありますね。
(漢中争奪戦の頃)

この頃は、参謀型軍師として法正(ホウセイ)がいました。

結局、法正が死んだ後、蜀は勢いを示すことなく、滅亡へと辿っていきます。

国を運営するには戦略型の人材だけではなく、参謀型の人材も多く必要になってくるという事ですね。

ただ、どうしても国に必要なのは戦略型軍師となります。

その為、曹操は荀ケを配下にした時「我が子房(張良/チョウリョウ の事。当時の軍師を例える最高の例え)」と言って喜んだ訳です。

ちなみに、蜀を例にとると
戦略型軍師:諸葛亮、ホウ統
参謀型軍師:徐庶、法正等
宰相型軍師:諸葛亮、蒋エン(ショウエン/字がでない)
官僚方軍師:馬良、費イ、孫乾(ソンケン)

と言った所ですかね。


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posted by たか at 03:55| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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