前回記載したおりに、送り仮名をつけのを忘れてしまいました。
すみません。
読めないですよね。
枚方は‘ひらかた’と読みます。
枚方には琵琶湖から大阪湾へそそぐ淀川が流れていて、古来より交通の要所でした。
枚方には「くらわんか舟」の話が残っています。
大阪と京都を結ぶ淀川には多くの船が行き来し、旅船は30石(荷物の積載量)が普通であったので、三十石舟ともいう乗り合い船でした。
その船の中で停船しようとする船を見つけ、その三十石舟に鍵爪を賭けて近づき、飯や汁物、酒等の飲食物を販売していた小舟が「くらわんか舟」と呼ばれていました。
‘くらわんか’という言葉の語源については、船頭達が「飯くらわんか、酒くらわんか、銭が無いからようくらわんか」と大声でがなりたてながら昼夜問わず商売した事に由来します。
ちなみに、くらわんかという言葉は「喰わないのか」、「喰う事も出来ないくらいの銭なしか」という乱暴で、挑発気味に言った言葉との事です。
このくらわんか舟、元々は枚方の対岸、高槻(たかつき)の柱本(はしらもと)が発祥と言われています。
柱本の船頭達は大阪夏の陣などで、徳川方の物資運搬に協力した功績で幕府から営業特権を与えられ、茶船の販売を始めるようになり、後に対岸の枚方宿に移るようになりました。
(この頃の枚方は宿場町として栄えていました)
この際に地元の乱暴な言葉遣いのまま飲食を売っても構わないという無作法御免の特権も与えられた為、身分の高い人に対しても「くらわんか」と叫ぶことが許されており、淀川往来の名物となっていました。
この商売は淀川の水運が鉄道へと変わる明治頃まで続きましたが、今では舟もなく、おかしや、店の名前にくらわんかの文字がつかわれているだけになってます。
しかしながら枚方宿のあった辺りには一部、当時を偲ばせる街並みが残っています。
その辺りの話もあるのですが、こちらは今度行ってきます。
写真等踏まえ、ブログにアップしようと考えてますので、また見に来てください。
今回の記事もまた、私が小さい頃学校で学んだ郷土史とWikipediaを参考にして記載しました。