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2010年09月01日

まずは隗より始めよ

今、民主党の総裁選真っただ中ですが…。

ちょっと古い話になりますが前の総裁選で樽床氏が出馬した際に「まずは隗よりはじめよ!」なんて言ってました。

ちょっと私は「?」だったんですが…。

というのも、この話は中国の戦国時代に燕という国が乱れ、隣国の斉に国土の多くを占領されました。

そんな最中、太子平が君主に即位しました。

この君主が昭王なんですが、この人は、燕という国に賢者を招かなければならないと常々考えていました。

そんな昭王は戦死者を弔い、生還者を見舞い、へりくだったことばを使い、給料を上げ…等々。

賢者を招こうと必死でした。

ある時、昭王は家臣の郭隗(カクカイ)に「天下の賢者を招き、国政を委ねて、斉に被った恥をすすぐにはどうしたらいいだろうか?」と尋ねた所、郭隗は

「私は、次のような話を聞いたことがあります。
昔、ある君公が千金をもって、一日に千里を走る馬、いわゆる千里の馬を手に入れたいと求めました。しかし、3年経っても手に入れることが出来ません。

すると、宮中の小間使い(取り次ぎの者)が、『私が行きましょう』と言って、探しに出ました。
彼は、3ヶ月後に千里の馬を見つけましたが、すでにその馬は死んでいました。しかし、彼はその死んだ馬の首を五百金で買って帰り、君主に報告しました。

君主はカンカンに怒り、
『私が欲しかったのは、生きている馬だ。どうして死んだ馬に五百金も払って来たんだ。』
と言いました。小間使いは、動じずに、
『死んだ馬ですら五百金で買ったのです。生きている馬なら、いったいいくらで買うのだろうと思うでしょう。千里の馬はたちどころにやって来るでしょう。』
果たして、1年も経たないうちに千里の馬が3頭ももたらされた、ということです。」

と答えた後、

「王がもし、優れた人物を招聘したいとお望みであれば、まず、この私、郭隗よりお始め下さい。私のような者でも取り立てられるとすれば、私より優れた人物はなおさらだと思うでしょう。きっと、千里の道を厭わずにやって来るに違いありません。」

と言ったそうです。

昭王は、郭隗のために宮殿を築いて、彼を師と仰いだ所、楽毅(ガッキ/趙の名将)や趨衍(スウエン/陰陽説の祖)等が続々と集まり、国政に努める事28年、ついに斉を破って滅亡寸前まで追い詰めた。

という故事から、できた言葉なんですが…。

なんか樽床氏の使った意味とは違うような…。

なんて思ってました。

おかしいなと思って当時、ネットで意味を調べたんですが…。

今は「身近な所から手をつける方がよい」という意味や、「物事はまず言い始めの人からやるべきだ」といった意味でつかわれるそうです。

それならなんとなく納得できるのですが…。
(でもやっぱりいまいちすっきりしない。)

ただ、言葉の成り立ちの故事だけを知っていたら、今回の私のような「知識バカ」になるんだなってつくづく思いました。

やはり故事と現代の使われ方をちゃんと知るべきですね。

以前このブログで記載した「背水の陣」(2009年9月30日のブログ/ファンブログ版をご覧の方はリンク集よりseesaa版私的歴史道に飛んでいただければ読んでいただく事ができます。)のように、本来の故事と現在使われている意味が違うものもあるんですからね。


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posted by たか at 00:06| Comment(0) | 戦国時代(中国) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月10日

万里の長城の悲しさ

今現在、宇宙から唯一見える建造物として世界遺産にも登録されている万里の長城ですが、一般的には秦の始皇帝が造ったことになってます。

が、現存する長城はどうも明の時代に造られたそうです。

始皇帝の頃は今の長城よりも北に位置し、土製だったそうです。
(今のように高くもなかったそうです。)

そもそも、この長城は始皇帝も(現存とは違う場所だそうですが)端から端まで造った訳ではなく、戦国時代に北の異民族から自領を守る為に各国が造っていた長城があり、始皇帝は単にそれをつなぎ合わせただけという物です。

何故、今よりも城壁が低かったかというと、元々、北の異民族の侵攻を防ぐために造られたので、異民族は馬に良く乗り、攻めて来た事から、馬が越えられない土塀を造るというのが元の発想です。

その為、それほど高い城壁で無くてよかったんですが…。

この長城、何が悲しいかというと…。

始皇帝は中国を統一した後、この事業に取り掛かりますが、結果的に見れば結局は「自分の力が及ぶ範囲はここまで!」という線を引いただけに終わってしまってます。

いくら始皇帝とはいえ、無限に領土を広げる事は無理なのはわかってますが…。

結局異民族を平らげる事が出来なかったんですね。

そのあたりに、私はこの万里の長城という建造物の悲しさを感じてしまいます。

現存する万里の長城は始皇帝が造った物ではないですが、一度行ってみたいと考えています。


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posted by たか at 01:16| Comment(0) | 戦国時代(中国) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月16日

中国史上最強?の軍師

今までいろんな歴史物の本を読んできましたが一番壮絶な軍師と言えば孫ピン(ピンは表示されない漢字です。)と考えています。

彼は孫子の兵法で有名な孫武(ソンブ)の末裔と言われています。
(ちなみに、孫武は春秋時代の呉の国に仕えた為「呉孫子」、孫ピンは戦国時代の斉の国に仕えた為「斉孫子」と呼ばれたそうです。)

その為、孫子の兵法の作者がずいぶん長い間孫武ではなく孫ピンでは?という説もありました。
(現在では1972年に山東省で孫ピンの記した兵法書の「竹簡孫子」が発見された為、孫子の作者では無い事が分かっています。この発見された兵法書は「孫ピン兵法」と呼ばれています。)

ピンという字(と言っても表示されない字なのでわかりずらいと思いますが、月に貧です。)は当時の刑罰の一つヒン刑(膝から下を切り落とす刑罰とも、膝の靭帯を切り歩けなくした刑罰とも…。しかしながら、この人は脚を切断されたらしいです。)の字を取っており、本当の名前は違う名であったと思われます。

この男、何が壮絶かと言うと、ちょっと長くなりますが略歴から辿ります。

若いころホウ涓(ホウケン/ホウの字が表示されない感じです。)という人と共に兵法を学び、ホウ涓は魏に仕官し、恵王の元で将軍になる事が出来ました。

しかしながら、自分が孫ピンに及ばない事を知っていた為、もし孫ピンが魏に来ると自分の地位が危なく、他国に仕官するとかなりの強敵になると考え、孫ピンを騙し魏に招待して罪に陥れ、ヒン刑(脚の切断)と鯨刑(顔に一生取れない入れ墨を入れ、罪を犯した証とする刑罰)に処し、一生どこの国にも仕える事が出来ないようにしました。

その後、孫ピンは幸運にも斉から魏に来た使者に救われ、魏を脱出する事に成功しました。

当初斉では、他人の策にはまりヒン刑、鯨刑を受けた孫ピンが優秀な軍師とは思われず、軍師として働く事が出来なかったのですが、ある時斉王(威王)と公子達とが馬を三組ずつ出し勝負する競馬が開催されました。

この競馬は馬の持ち主が他の馬の持ち主に勝負を挑み、着順が上の方が勝ちという賭けとしては一対一で成り立つ競馬です。

その競馬に、孫ピンは田忌(デンキ)という将軍について出席していましたが、「王の馬と勝負して勝ちましょう」と進言します。

馬を比べると田忌の三頭の馬の実力を上、中、下とし、威王の馬の実力を同じく上、中、下とした場合、いずれのランクの馬も王の馬の方が少しいい馬でした。

それに対し孫ピンは王の上の馬に田忌の下の馬、王の中の馬に田忌の上の馬、王の下の馬に田忌の中の馬をあてるという進言をして見事2勝1敗で勝ち越し、そのお陰で田忌は千金を手に入れます。

このエピソードから田忌は孫ピンの軍師としての力量を認め、威王に軍師として推薦します。

それにより、孫ピンは斉の国で軍師というポジションに着く事が出来ました。

ここから孫ピンの軍師としての活躍が始まります。

魏が趙を攻撃し、趙の都を包囲した際に、趙は斉に救援を求めました。

斉王は田忌を将軍とし、孫ピンを軍師として派遣したのですが、孫ピンは自分が前に出ないように、また、名前が外に出ないように田忌に話し、車に隠れて出陣しました。

普通、趙から援軍を求められているので趙を目指すのですが、この時の魏の兵力から推察すると主力の全軍を挙げて趙を攻めていると孫ピンは考え趙には向かわず魏の本国に向かうよう進言しました。

趙を囲んでいる魏軍は本国に斉の大軍が向かっているという報告を受け、趙の囲みを解き強行軍で本国を目指したのですが強行軍で疲労の極みにある所を斉軍に攻められ大敗しました。
(この戦から囲魏救趙という故事が生まれました。)

その後、斉軍は孫ピンの指導のもと秘密裏にかなり強い軍に生まれ変わります。
(ちなみに、この頃の斉軍は中国で一番弱い軍と言われてました。)

斉に大敗した魏軍が戦力を回復し、ホウ涓を将軍として韓を攻めると再び韓の救援の為田忌と孫ピンが派遣されます。

前回と同じように魏の都を攻めようとしたのですが、ホウ涓はさすがに本国の備えを怠らず、斉軍が魏攻略に手間取っている間に韓の攻略を引き上げ、斉軍を挟撃しようとしました。

この魏軍の動きを知った斉軍は撤退に取りかかったのですが、ホウ涓は打撃を与えるべく斉軍を追撃します。

その魏軍に対し孫ピンはホウ涓の「斉兵は弱い」という侮りを逆手に取り、斉軍陣営のかまどの数を前の日の半分、次の日は更に半分という風に減らしていきます。
(戦場では陣営にかまどを築いて食事をしたので、その陣営の後を見るとかまどの穴の数から大体の兵力がつかめます。孫ピンはかまどの数を減らす事により斉軍に逃亡者が出ていると魏軍に思わせるように仕向けた訳です。)

これをみたホウ涓は軍の速度をますます上げます。
(軽騎兵のみにて追撃に切り替えたともいわれてます。)

孫ピンは逃げながら馬陵(バリョウ)という土地に魏軍を誘い込み、しかも夕暮れ時に魏軍が馬陵に到着するように仕向けます。

先に馬陵についた孫ピンは魏軍に対し伏兵を設けます。
(この通路には左右に森があったので)

また、馬陵には目立つ木が一本生えていました。

その木の肌を削り「ホウ涓この木の下に死す」と書き記し、周りに伏せている兵に「夕暮れ時に魏軍はここに到着し、この木に松明をともした人物が近付いてくる。この人物めがけてありったけの矢を放て。」と指示し魏軍を待ちます。

案の定夕暮れ時に魏軍が到着し、ホウ涓は一本の木の肌の一部が異様に白くなっているのを発見しました。

松明を持って近づいた所「ホウ涓この木の下に死す」と書かれているのを見て驚いた刹那、周りから矢を浴び、全身に矢を受けた彼は死んでしまいます。

ここに晴れて孫ピンの敵討が成功する事になります。

この戦が孫ピンの名前を不朽の物とします。

千とか万単位でいる人の中から目指す1人を殺すという本当に恐ろしく、凄惨な策と考えます。

ホウ涓に対する恨みが孫ピンの智謀を冴えさせたのか、この後の孫ピンの活躍は全く史書に記述がありません。

実は、私が古代中国の中で一番恐ろしい軍師と考えているのは張良(チョウリョウ)や太公望(タイコウボウ/呂尚リョショウ、姜子牙/キョウシガとも)、諸葛亮(ショカツリョウ)ではなく孫ピンです。

孫ピンについては海音寺潮五郎氏の書かれた「孫子」や、宮城谷昌輝氏が書かれた「孟嘗君」等にてその活躍を読む事ができます。


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posted by たか at 04:20| Comment(0) | 戦国時代(中国) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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